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橋下(元)弁護士は、現代のソクラテスである、と思った。

光市母子殺害事件に関して、ネット上で、うなえだ弁護士擁護派vs橋下弁護士擁護派の論争が繰り広げられたのは、約1年前。

私としては、本当に知りたかったのは、「誰がドラエモン弁護なんていうものを思いついたのか」っていうことだけであって、そこから派生した小競り合いになんて、全く興味はないんだけれど、一応節目として、記事を書いておきたい。

橋下知事に賠償命令 母子殺害事件巡る発言で 広島地裁

(asahi.com)

>橋下徹弁護士(現大阪府知事)のテレビ番組での
>発言で大量の懲戒請求を受け、業務を妨害された
>として、山口県光市の母子殺害事件差し戻し控訴
>審で被告の元 少年(27)の弁護人を務めた弁護
>士4人が1人300万円ずつの損害賠償を求めた
>訴訟で、広島地裁は2日、1人につき200万円、
>計800万円の支払いを 命じる判決を言い渡した。

800万円……。

ただだか十数分のおちゃらけ発言の代償としては、余りに高すぎるそのお値段。ちょっと厳しすぎやしませんかっとも思うけれども、訴訟を起こされた弁護士さんへの、今後のお仕事への影響を考慮すれば、それもやむなし、といったところか……。橋下弁護士を応援していた私としても、これは同罪。反省しなければなりませんね!

ただ私は、その800万円というのは、「高い授業料」などでは決してなく、橋下弁護士の、「覚悟の上での支出」、だったのではないかと思ったり。彼の行動が生んだ結果というのは、たかだか800万円ぽっちじゃ得られない、我々庶民達にとっては、まさにプライスレスなものでしたからね。橋下弁護士はきっと、そんな覚悟でこの裁判に臨んだのだと私は思います。むろん、某テレビ番組で、件の発言をされたときに、すでに橋下弁護士が、この結末を予想されていたかどうかは、私にはわからないんだけれども、でも、少なくとも彼が、ただのオチャラケ、視聴者へのリップサービスだけで、あのような発言をされたのではないと、私は信じているし、きっと事実もそうなんでしょう。だからこそ彼は、大阪府知事になりえたのだと思います。

ところで私は以前、「橋下弁護士のこの裁判の判決が出たら、書きたいことがある」っと書いたはず。それについて、一年たった今、書いておきます。

「橋下弁護士は、現代のソクラテスである!」cat

黒いものを「黒い」といい、白いものを「白い」ということ。そんな単純なことさえも満足に出来ない人が、このハイテクによって武装された近代日本にさえも、存在する。それは「現代のソフィスト」であると言える。かつて古代ギリシアで行われた紛争が、今この日本に復活したのだと私は思わざるを得ない。むろん、「ソクラテス=橋下弁護士」である。このメタファーに気づいた瞬間、私は橋下弁護士の敗北を予感しました。でも、だからこそ、私は今後も橋下弁護士を信頼し、応援していかなきゃいけないなっと思ったのです。

これは、哲学に親しんでいる方ならば、誰でも思いつくことかなっとも思うんだけれどね。

橋下弁護士は、裁判を続けるつもりみたいだ。だったら私は、

「ぐはあ! もともと私は、茶髪でグラサンの橋下弁護士は、
あまり好きじゃなかったんですけどねー!」

っとか思いながらも、この裁判の決着がつくまで、橋下弁護士のことを応援したい。

現代の「ソフィスト達vsソクラテス」

我々はもうしばらくの間、この裁判をマジマジと注目し、この問題について、考えてみなければいけないなっとか思ったり。あなたはそうは思いませんか?

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コメント

裏である作業をしながら慌てて書いたものなので、ちょっと読みづらいかなあ。暇が出来たら推敲しときます。

投稿: 超! | 2008年10月 8日 (水) 22時38分

橋下氏は、以下のことを言っています。

テクニックと気構えが命"負けたら死ぬ"橋下流、3つの交渉術
ソフトバンクパブリッシング ビジスタ(2003年9月号)
「僕は弁護士登録して1年後に事務所を設立したので、
他の弁護士があまり手を出したがらないような仕事を受けることが多かったんです。
 その中で身に付けていった交渉術が「合法的な脅し」と「仮装の利益」。
これが僕の交渉方法の8割から9割を占めます。最終手段で「お願い」をすることもあります。
 合法的な脅しとは、法律に反しないギリギリのラインで、相手側にプレッシャーをかけることです。
(中略)
 「仮装の利益」とは、「こちらの要求に従えば、これだけの不都合が避けられますよ」と、
実在しない"上乗せ"を示し、相手を得した気分にさせて要求を通すというもの。
 これも合法的な脅しと併せてよく用いる交渉方法です。
 それでも話し合いに進展が見られないときに使う奥の手が、「お願い」です。
(後略)

論理とは詭弁だ  異色の若手弁護士が語る説得法
ソフトバンクパブリッシング 「月刊ビジネススタンダード」(2002年9月号)
「詭弁を弄(ろう)してでも、黒いものを白いと言わせるのが論理的な交渉の醍醐味」
と豪語する橋下弁護士

私は橋下氏こそソフィストだと思いますけどね。

彼は知事になってからでも、あまりにも言うことを覆すので「クルクル王子」と命名されていますよ。

投稿: 指摘マン | 2008年10月13日 (月) 12時31分

指摘マンさん、こんにちは。コメントありがとうございます。

橋下氏は以前、そんなことを言ってたんですね。2002年9月、ですか。その頃からいろいろあっただろうし、橋下氏も、それなりに成長しているんじゃないかな、っとか思いますが、彼が6年間何の成長もせず、同じことを主張するのなら、確かに「橋下弁護士もソフィストの一人」、と言うことも可能なのでしょうねー。ひょっとしたらこの戦いは、「ソフィストvsソフィスト!!」、なのかもしれませんね。

「クルクル王子」については、2008年2月に、私はこんな文章を書いてます。

「人間だれしも完璧ではないし、また針小棒大付和雷同な輩もいるから、この世に生きる人間すべてが善人・仏にでもならない限り、誹謗中傷というものは断じてなくならない。だから橋下府知事がバッシングをいくらうけていようとも、私が彼を応援する気持ちはゆらがない。朝礼暮改? 別にいいじゃん。むしろ自分の過ちをすぐさま認めるその潔さに、私は男気というものを感じるよ。橋下弁護士が、日本を良くしたい、大阪という街を良くしたい、と思っていることはもうわかってる。そのためならば、朝礼暮改なんてたいしたことじゃない。むしろ積極的に自分の非を改め、自ら感じたことを、マスコミを通じてもっともっと一般庶民に伝えて欲しいな。それでこそ橋下さんが府知事になった意味があろうというもの。ちょっとやそっとのバッシングで、動じるような彼だとは思ってないけれど、一応ここに、橋下府知事を応援する愚民が一人いることを、伝えておきたい。彼にはまだまだやれることがある。いけばわかるさ! どんなもんじゃーい!!」

......。今読むと、ちょっと妄信し過ぎな気もしますが。

間違うことが罪なんじゃない。間違いを間違いと認められず、いつまでも詭弁を弄して自己正当化を図ることが罪なんじゃないのかな、なんて、今の私は考えています。cat

投稿: 超! | 2008年10月13日 (月) 16時15分

超さん

レスありがとうございます。
橋下さんについては、実は私は知事に立候補した点そのものにも疑問を持っています。
彼は、懲戒請求扇動訴訟で、敗訴色が強くなってから、ブログの更新をやめてしまいました。「世間に対する説明責任」とあれほど言っていたにもかかわらず。
彼も法律家ですから、敗訴→自分の懲戒処分→タレント兼弁護士としての生命の終焉、という予想を立て、悩んでいたのだと思います。
そのような中、突然の出馬表明。選挙の準備もなにもなく、年収3億というタレント収入を捨てての出馬表明に、私は、彼が元知事職という肩書きを得てのタレント生命の継続に望みを掛けたのだと理解しています。
知事になって頑張っているのは、そこで実績を上げて人気を得ておかないと、やめた時のタレントとしての価値が下がってしまうから。

うがった見方かもしれませんけど、私にはどうしてもそう思えます。もっとも、知事になった以上は、しっかり頑張って、大阪府を少しでもよくして欲しいと思っていますし、その点では私も感情を切り離しています。制度疲労を起こした大阪行政を、庶民の声でもってたたき壊すことも一定程度必要でしょう。
しかし、世間の声を背景にバッシングするという橋下さんの手法はいつまでも通用するわけではありません。最近はだいぶんメッキが禿げてきた気がしています。これから、橋下さんの実力が問われるのだと思います。心を入れ替えて頑張って欲しいですね。

投稿: 指摘マン | 2008年10月13日 (月) 16時34分

指摘マンさん。こんばんわcat

橋下氏の知事への立候補については、私は少し違う考えを持っています。確かに指摘マンさんのおっしゃる通り、最終的にタレントで生きることを決意してのこと、かもしれませんが、私はそれに加え、「あわよくば政治の世界に食い込み、裁判のあり方というものを外部から変えられれば!」なんていう目論みも、ひょっとしたらあるのかと。もちろん、知事として実績を残し、続投を期待されたならば、今後は知事一本、っというのも、おそらく考えの中にあったと思います。「災い転じて福となす」っていう才能が、橋下氏にはある気がします。そんな彼の才能を、大阪の皆さんは、もっとうまく利用すべきなんじゃないかな、と思います。

 「大阪を良い町に!」っというのが、よしんば彼の、大衆に取り入るためのポーズだとしても、彼が本当に大阪をいい町に出来るんなら、してもらえばいいし、もしそれが出来ず、おかしなことをやり始めたなら、みんなで徹底的に糾弾し、政治の場から引き摺り下ろしてやればいいですね。

 でも、今の所、ぽっと出のおちゃらけタレント知事にしては、よくやってますよね。彼が何かヘマをしたら、逆に糾弾してやろうと待ち構えている私も、知事になってからの彼の言動には、感心させられること、山の如しです。結局彼は、なんでも出来るマルチな人なのかもしれないですね。「人は見かけによらない」、あるいは「孫にも衣装」、ってことなのかもしれませんね。

判決後、橋下氏がブログを全消ししちゃったのは、私も本当に残念に思ってます。裁判で「クロ」と出てしまったから、消さないとまずかったのかもしれないですけど、彼をずっと応援していた立場上、謝罪文と、今後の決意表明、みたいなものを掲載して欲しかったな、とか思います。その点のみ、大きなマイナスポイントだったなー、っていう気持ちは否定できませんが......。それはさておいて、

>心を入れ替えて頑張って欲しいですね。
私も心から、そう願ってます。

投稿: 超! | 2008年10月13日 (月) 18時25分

超さん


>「あわよくば政治の世界に食い込み、裁判のあり方というものを外部から変えられれば!」なんていう目論みも、ひょっとしたらあるのかと。

だとしたら国政選挙に出ると思うのですけどね。知事になっても、条例の制定は出来ても法律の制定はできませんから、訴訟制度を変えることはできません。裁判のあり方を変えたいのなら、まずは弁護士会の各種委員会などで活動して、内部から変える努力からスタートすべきですが、彼は無償のボランティア活動であるこのような活動は一切行っていなかったようです。ですから、橋下氏は、現在の裁判制度の何が問題で何が長所なのか、普通の弁護士よりも理解は浅いと思います。私は橋下氏にはボランティア精神があるようには思えません。常に金のことを考えていると思います。弱者を守るための弁護士活動も殆どやってこなかったようです。しかし、金のことしか考えていないことがわかってしまうと人気が凋落してしまうこともよく解っていると思います。

長期的には国会議員になるという思いがあるようにも思います。

>でも、今の所、ぽっと出のおちゃらけタレント知事にしては、よくやってますよね。~結局彼は、なんでも出来るマルチな人なのかもしれないですね。「人は見かけによらない」、あるいは「孫にも衣装」、ってことなのかもしれませんね。

特殊な才能を持った人だと思いますね。「平成の織田信長」なんて言う人もいますけど、一種異常な能力を感じます。世論を引きつける能力とでもいいましょうか。法律家としては問題が大きいと思いますが、政治家には大切な資質です。ただし、その反面、情緒面での欠落も感じます。そういう点が織田信長を彷彿とさせるんでしょうね。戦国時代であれば、いいんでしょうけど、今は民主社会ですから、あまりに独裁者的なことをやれば、すぐに嫌われてしまいます。結局、人気だけが橋下さんのバックボーンですから、それを維持し続けなければなりません。しかし、政治家というのは、長期にわたる将来的展望から、時に現在の世論からは嫌われることもやらないといけない時があります。民意は常に短期的な利益を求めますので、それをどうやって説得するのか。そのあたりをどう綱渡りしていくかでしょうか。こういう部分で、選挙時の公約を二転三転させたり、最近、逆風が強まっていることに集約されているように思うのです。

大阪府民は、橋下氏の上記のような問題を認識しつつ、逆に橋下氏を利用するくらいのしたたかさを持って欲しいと思っていますが、案外、商売人の町である大阪の人たちは、よく解っているのかもしれません。熊谷さんは、常識的な人だとは思いますが、大胆な改革は望めないでしょうから、橋下さんを選んだのではないでしょうか。

大阪行政の旧弊を壊すだけ壊してもらうことを橋下さんに期待しています。その上で、新たな政治像を確立することができるか?できなければ、別の人に変わってもらうという感じでしょうか。

投稿: 指摘マン | 2008年10月13日 (月) 18時55分

指摘マンさん、たびたびするどいご指摘、ありがとうございます。私はディベートを目的とはしていませんので、指摘マンさんとは異なる見解を持つ部分のみ提示するに、とどめたいと思います。
こういった「健全な」議論によって、指摘マンさんに、何か得るものがあれば幸いです。もちろん私も、指摘マンさんのコメントから多くのもの頂いており、感謝してます。どうもありがとうございます。

>知事になっても、条例の制定は出来ても
>法律の制定はできませんから、訴訟制度を
>変えることはできません。
確かにそうです。でも、おちゃらけタレント弁護士氏の立場では、裁判というものを変えられないんなら、制度を変えるための第一歩として、まずは知事としてキャリアを積んで......、というビジョンは、あり得なくもありませんね。実際、自民党その他が、おちゃらけ知事である彼にアプローチしているようですから、あながちその可能性も、なくもない。そういった可能性も否定できない非凡さを、彼の中に感じます。
 ただし、一度府知事になったからには、大阪の景気回復に何らかの指針を示した上で、次のステップに進んで欲しいです。そうでなければ、「府知事」という職務は、彼にとってただの踏み台でしかなかったということになり、そうなったら私は、手の平を返したように、彼を糾弾し始めると思いますよ。これは橋下知事だけでなく、東国原知事についても言えることですね。

>できなければ、別の人に変わってもらう
そうですね。私はそれでいいと思います。大阪の問題点らしきものを浮き彫りにさせつつ、世論の賛同とか顰蹙を浴びつつも、数多くの議論を巻き起こす。そんな彼の不甲斐なさを見て、「全くなっちょらん! ヤツよりも俺様の方がまだ知事に相応しい! 次は俺様にやらせろ!!」っとかおっしゃる、気骨のある方を土俵にあがらせるための「捨石」的役割、いわゆる「ヨゴレ」という役割を、橋下弁護士は、自ら買って出たのかも。私の買いかぶりかもしれませんけど、今のところ、橋下氏の言動からは、これを逸脱したものは見受けられないのですね。
彼という「捨石」を踏み台にして、大阪という町がより良くなりさえすれば、結果的にはそれでいいと思うのです。極論をいうなら、その結果橋下弁護士が、路頭に迷おうとも、それは彼の自己責任。

そういった、「自己犠牲」的精神を、私はどうも、橋下弁護士の言動から感じざるを得ないんです。だからこそ私は、彼のことを「現代のソクラテスである」なんて思ってしまうし、彼のことを応援したくなるんですよねー。そんな私は、彼の持つレトリック、詭弁術によって、すっかりだまされているのでしょうかwobbly

ところで私、平日はあまりコメント返せませんので、タイミングによっては週末のお返事となるかもしれません。その点ご容赦くださいね。

投稿: 超! | 2008年10月13日 (月) 20時33分

超さん

もちろん、私も超さんからいろいろ刺激を受けていて、とても勉強になり感謝しています。
日本の民主主義のあり方という点においても、自分自身の考えを深めることができています。

超さんとこのように議論していることがとても楽しいです。

私が、橋下さんが裁判制度を変えるために政治家を志したのではないと思っているのは、これまで述べた点に加えて、国会議員というのは実はあまり力がない、という点があります。衆議院議員としての議決権は512名中の1票しかありません。それよりも、社会的影響力という点では、タレント弁護士だった立場の方がずっと大きかったと思うのです。何せ、テレビで発言しただけで、司法をひっくり返すような8000件もの懲戒請求が出されたわけですから、この力というのはすごかったと思うのです。それによってさらに人気を高めたのですし。裁判制度改革案というのも、彼が本気になって法案を作り、それをメディアで発表していたのなら、既存の国会議員も動かすムーブメントになっていたでしょう。

ただ、国政に転向した場合は、周囲も裁判制度を変える役割を橋下さんに期待するでしょうし、橋下さんもサービス精神旺盛な人ですから、この期待に応えようとするでしょう。それこそ逆境をプラスに転じるという超さん御指摘の彼の資質からしても、裁判制度を変えたい、という名目で彼が国政に出ることもあり得ると思います。

私は、橋下さんは、本当は内心では、知事を辞めたくなっているのではないかと推察しています。東国原さんが衆議院選挙に色気を見せた時に、それを支援するような発言をしたのも、彼のそのような内心の表れかな、と思いました。常識的に考えれば、東国原さんも知事としての実績らしい実績も実はなく、1年数ヶ月しか勤めていないのですから、議員転向など世論が許すはずがないのに、世間の風をかぎ分けることに長けた橋下さんが、その点を見誤ったというのは、彼の本心がうっかりと出てしまった結果ではないかと思うのです。

世論の勢いで、緊縮財政にすることまではそれほど難しいことではないでしょう。不要な部分をカットすればいいだけのことですから。破産管財人的手法を用いることが出来る分野です。しかし、それを踏まえて、今後は、新たに構築していかないといけません。予算を使わずにそれを実現していくには様々なアイデアを出していく必要がありますし、彼に敵意を抱いている府庁職員を動かしていかねばなりませんが、それは容易なことではありません。弁護士というのは個人営業ですから、組織的に人を動かしていくという人心掌握術は苦手にしていると思います。彼はカメラによる隠し撮りなどという恐怖政治的な手法によって職員を動かそうとしているようですが、そんな方法ではうまくいくはずがありません。このあたり、若さというのが出てしまっています。

また、緊縮財政にしたことによる弱者切り捨ての不満が、徐々に充満していくことになります。このあたりは小泉改革での先例があります。橋下さんは、このようなマグマがたまり始めているのを察知して、「壊し屋」としての名声を得た後は、さっさと国政の方に転向したいと思っているのではないでしょうか。国会議員は、知事と違って、権限もあまりないかわりに、責任もあまりありませんから。でも、知事は、自治体の運営に絶大なる権限を有する反面、その結果についても全責任を負わねばなりません。この重圧というのは、すさまじいものがあると思うのです。最近、弱気になっているのは、そのようなことから、知事を辞めたいと思っているからではないでしょうか。しかし、知事を辞めても、タレント弁護士としてやっていくことも困難になりつつあり、進むも地獄、引くも地獄という状況のように思います。

今、彼は大分県の教育委員会の不祥事をきっかけに、教育委員会を新たな「敵」に仕立て上げ、これを攻撃することで庶民の歓心を買っています。確かに、教育委員会も制度疲労を起こしており、改革が必要であるとは思いますが、みのもんたや、彼が出ていた「たかじんのそこまで言って委員会」に通じる、大衆の憎悪の的になる敵を見つけ出し、叩くだけ叩いて庶民の攻撃本能を満足させるという手法を用いているだけであり、そのような手法はいずれ息切れすると思います。

彼自身に一貫した教育理念があるか、と言われれば、これもまた二転三転しており、理念を持っているようには思えません。7人の子供の世話は奥さんに任せっぱなしで、殆ど家に帰らなかった、ということや、50分間も自分の子供を投げ続けて体罰を与えた、というのは出馬前に彼が言っていたことですし、また、選挙の際には、子供は学業など出来なくてよい、などと言っていました。しかし、全国学テの結果が悪かったことを契機に、また教育委員会を叩いており、その他にも、教育に関する彼の考えは、指摘すれば枚挙に暇がないほど矛盾だらけです。

教育委員に蔭山さんのような有名人を起用していますけど、これも有名人を起用すれば、それで良くなるというものでもないと思います。一時の巨人軍のように、外部から実力選手を手当たり次第で集めてくるという手法ですが、それで強くなるわけでもないと思います。教育というのは、とても難しい分野だと思います。成果が出るとしても、十年近い先の話です。


私は橋下さんからは、自己犠牲の精神を全く感じることができませんが、それがあるように装うことは巧みだと思っています。橋下さんは自己顕示欲が強く、有名になりたい、人気を得たいという思いが人並み外れて強いのでしょう。そして、人気を得るためには何が必要か、どのように自分を装うことが必要かを熟知している人のように思います。このまま知事を続けていれば、人気が次第に凋落していくということも、よく解っているのではないでしょうか。

お返事はいつでも暇な時にしていただければと存じます。

投稿: 指摘マン | 2008年10月13日 (月) 21時38分

ご理解ありがとうございます。すみませんが一週間ほどお時間ください。中途半端でお座なりなお返事は書けないな、って思ってます。

投稿: 超! | 2008年10月13日 (月) 23時42分

お待たせいたしました! 一週間考えてみました。

 橋下氏が国政に鞍替えするというのは、今のところ私は無いと考えています。自分のやったことの結果を見ずに、別のことに着手するほど、彼は無責任な人ではない気がしますよ。
 無論それは、彼の言動から私が作り上げた彼のイメージであり、そうは思わない方がいても、何の不思議もありませんし、実際彼が、次の国会議員選挙で突然自民党から出馬したとしても、私は特に驚きはしませんし、不可解とも思いません。ですが、もしそうなったら、私は心からがっかりするだろうな、とは思います。彼が今そのような、極めて重要なターニングポイントに立っていることは、誰もが認めることでしょう。彼がその選択の結果を出すまでは、私は少し黙って見守ってあげたいな、と思うんです。

 緊縮財政にしてもそう。「改革とは痛みを伴うもの」、というのは、ある面真実であり、橋下氏が本気で大阪を良くしようと考えれば考えるほど、府民の方々の不満が出るのは、当然と言えるでしょう。問題とすべきは「痛み」ではなく、「本当にそれは、不可欠な痛みなのか」、「本当に結果のともなう、意味のある痛みなのか」ということです。橋下弁護士が、ただの話題づくりのために、一部の人達に悲鳴を上げさせているのだとすれば、私は彼のことを、絶対に許しません。ただ今は、まだ結果も出てないし、彼が知事という職を放り出したわけでもなく、彼は極めてまじめに、真摯にその職に取り組んでいるわけですから、あえて今、彼の知事としての資質を問題とする必要もないと感じます。

 ただ、「教育という分野は成果が出るのに十年かかる」、というのは、おっしゃる通りですね。今やっていることが、未来にどのような影響を及ぼすのか。橋下知事を含め、関係者の皆さんには、しっかり議論していただきたいです。結果がわかってからでは遅すぎる、そんな重要な問題であるわけですね。

「橋下(元)弁護士は、現代のソクラテスである」、っとういう私の主張から始まり、「橋下(元)弁護士は、現代のソフィストの一人である」、っとなりつつあったこのお題、次のように考えることも出来るような気がしてきました。

「橋下(元)弁護士は、あえていうならば、現代の道化師である」
「衝撃! 橋下(元)弁護士は、実はただのトリックスターだった!」

 将来、彼に対してどのような評価が下されるかは、今後の彼の言動次第で変わるでしょう。もし彼が今後大失策を犯したならば、いつでも知事としての彼の寝首をかけるよう、私もこの言語の刃に更なる磨きをかけておきたいという所存でありますcat

投稿: 超! | 2008年10月18日 (土) 12時37分

超さん

>ただ今は、まだ結果も出てないし、彼が知事という職を放り出したわけでもなく、彼は極めてまじめに、真摯にその職に取り組んでいるわけですから、あえて今、彼の知事としての資質を問題とする必要もないと感じます。

それは仰るとおりです。結局は、大阪府民が最終的に判断すべきことですし、失礼ながら、このエントリーを大阪府民何十万人が見るようなこともないのでしょうし、仮に見るとしても同様の議論がなされている数多あるブログの一つという見られ方をするのであり、私たちがこのような議論をしていても、その影響力というのはあまりないのでしょうから、彼の知事としての資質について論じても、現実を何か動かすというものでもないと思います。ただ、議論をしていく中で、私たちの考え方や感性というものを磨いていけるという点に意義があるのであり、そこで得たものをそれぞれの現実社会で生かして行ければいいということになるのだと思います。

>橋下氏が国政に鞍替えするというのは、今のところ私は無いと考えています。

それは私も同意見です。

>もしそうなったら、私は心からがっかりするだろうな、とは思います。

東国原さんの国政への色気に対して、大反対が起こったことから、橋下さんも、仮に今国政に出れば、人気が下がることがよく分かったと思いますので、その点からも、今回、彼が国政に出るという選択肢は消えたと思っています。

>自分のやったことの結果を見ずに、別のことに着手するほど、彼は無責任な人ではない気がしますよ。

この点については異論があります。光市弁護団への懲戒請求扇動問題で、彼が示した姿勢は、無責任極まりないものでした。多数の視聴者を違法である可能性のある懲戒請求をするよう扇動したにもかかわらず、彼は梯子を外すようなことをしました。自分自身が懲戒請求すれば、直ちに自らが懲戒処分を受けることがわかっていたために、自らは「家族や従業員もいるんで、食べさせて行かなきゃいけないんで」などと言って懲戒請求せず、かつ、その後ブログでは、ますます懲戒を煽るようなことを行い、さらに、今枝弁護士から送られてきた求釈明書に対しては、「答える必要はない」などと述べ、各懲戒請求者自身が提訴される危険性を高める半面、自分の身を守るようなことをしました。「人間の盾として利用している」と批判された所以です。自分を守るために、相手を不利にさせるようなアドバイスを行うことは、弁護士基本職務規程上の利益相反行為に該当するものであり、これだけでも橋下さんは自分自身が懲戒処分の対象になるものです。そして、訴訟では、自分の懲戒請求扇動と、各懲戒請求者の懲戒請求とは因果関係がない、などと主張し、各懲戒請求者を見放すような対応をしました。「世間に対する説明責任が大切」などと言って、弁護団を批判しておきながら、自分自身は、巻き込んだ懲戒請求者のフォローをせず、途中からはブログの更新を一切やめ、懲戒請求者や世論に向けての説明責任を果たしませんでした。裁判にも一回も行きませんでした。せめて判決全文をブログで紹介すべきですが、これもしませんでした。

懲戒請求者を捨て置いて、彼は知事選に出馬したのです。逃げたわけです。私は、橋下さんの上記のような対応に、社会人として最低限必要な責任の自覚というものを感じることができません。

ただ、今は、自分の人気を維持しておかないと、今後のタレント人生において不利になることがわかっているために、知事としての責任を取るようなふりをしているだけです。橋下さんは当選直後、府職員の前で、「知事に当選したことで、今後、何十年もタレントとして食べていけるものを得たと思っている」などと話しています。このようなことを職員の前で話す神経を疑いますが、これは彼の本音だと思います。

2ちゃんねるで、橋下さんの言動の矛盾点をまとめたものが貼り付けられていましたので、拾ってきました。

■「歴史的経緯のある特別な永住外国人について、当然これは参政権を与えるべき」
■「日本人による買春は中国へのODAみたいなもの」
→「チベット問題は政府の問題、関西は一丸となって中国との結びつきを深めていく」
■「光市母子殺害事件の弁護団に懲戒請求を行うべきだ」
→「僕は懲戒請求していない、事務所の運営で忙しく、公費も出ないので」
■「府知事選出馬は20000%無い」→「先日の発言は撤回、出馬する」
■「許永中や消費者金融の顧問弁護士だった」→「今後は慎重に行動する」
■「日本は核配備すべき」→「あれは話芸」
■「学校の校庭を芝生化する」→「府の権限とは関係ないことだった」
■「府債発行はゼロの方向」→「勉強不足だった、府債160億発行する」
■「私は365日24時間公人だ」→「私は365日24時間私人でもある」
■「職員給与カット、人件費を削減する」→「頑張ってほしいという表現、修正する」
■「職員は私語・タバコ休憩禁止」→「勤務中の公用車使ったジム通いは問題ない」
■「同和対策予算はゼロにする」→「同和行政は適切だ、特別扱いはしていない」
■「共産党は多数派になってから意見すべき」→「謝罪し、議事録削除を要請する」
■「中堅職員を自衛隊に体験入隊させる」→「自衛隊研修はしない、撤回する」
■「知事として教育委員会に命じる」→「無知で完全に間違いだった、撤回する」
■「小学校の35人学級見直す」→「机上の空論だった。反省し撤回する」
■「府立高の学区制を撤廃する」→「世間知らずを痛感した、撤回する」
■「学力テストの結果は何の役にも立たない、重要ではない」→「結果が重要だ」
■「学校は読み書きそろばん、礼儀だけでいい」→「学力テスト、このザマは何だ」
■「感情的な発言や人格攻撃は控えてほしい」→「クソ教育委員会のクソ野郎が」
■「テスト結果非公開なら予算つけない」→「言い過ぎた、よく考え直す」
■「伊丹空港は廃止の方向」→「三空港の一体運用に合意、伊丹廃止は撤回する」
■「自民公明の推薦支持に全身全霊で応える」→「民主党に感銘を覚え応援したい」

この中には批判に当たらないものも含まれていますし、単に勉強不足であっただけであり、若さ、経験のなさという点からやむを得ないものも含まれています。しかし、相当に問題のあるものもあります。いずれにせよ、だんだんとメッキが剥がれてきているのが現状だと思います。


>緊縮財政にしてもそう。「改革とは痛みを伴うもの」、というのは、ある面真実であり、橋下氏が本気で大阪を良くしようと考えれば考えるほど、府民の方々の不満が出るのは、当然と言えるでしょう。問題とすべきは「痛み」ではなく、「本当にそれは、不可欠な痛みなのか」、「本当に結果のともなう、意味のある痛みなのか」ということです。

今回の保育園の畑に対する行政代執行の問題が象徴的ですね。今のところ、私はこの件を最終評価するには情報が不足しているので(他に7カ所、未買収の土地があるということであり、果たして本件畑について代執行を2週間延期することが、全体の工期にどれだけ影響するのか、写真撮影された園児は、保育園側が言っているように、たまたま保護者が園児を連れて通りかかっただけなのか否か)、それは控えています。この件は、保育園理事長にも、かなりいかがわしいところがあり、橋下さんだけが責められるような問題ではないとは思います。また、公益を、保育園の畑という私益に優先させることは、仕方がないことです。しかし、ともかくも、私人の所有権を全体の利益のために奪うのですから、それなりの配慮が必要です。ましてや畑として長年利用してきた畑です。強制収容するにしても、もう少しソフトにやる方法はいくらでもあったと思うのです。しかし、一旦権力を握ると、強権的にやってしまうのは、橋下さん自身が情緒面で欠落しているところがあり、本当は弱者に対するいたわりがないのであって、それを演技で隠してきたけれども、いざという時に露呈してしまうということではないかと思います。だから足下をすくわれてしまったのだと思います。

彼は人気を背景にして府政に切り込むというやり方をしていますが、それは恐怖政治の手法です。府庁においては、皆、戦々恐々として、橋下さんを諫めるような人は誰もおらず、橋下さんは裸の王様になりつつあるのではないかと思います。このような状態では、ますます強権的、独裁者的な側面を強くしていくのではないかと懸念しています。堺屋太一さんのコントロールも効かなくなってきているのではないでしょうか。

>将来、彼に対してどのような評価が下されるかは、今後の彼の言動次第で変わるでしょう。

私は、一個の人格という点では、橋下さんを信頼していませんが、能力の高い人であり、行動力があり、臨機応変に自分自身を演出できる人です。奸物であっても、府民のために活動することを期待はできると思いますし、そうなって欲しいです。

投稿: 指摘マン | 2008年10月18日 (土) 18時46分

指摘マンさん。詳細なコメントありがとうございます。実をいうと私も、「橋下(元)弁護士の功罪」について、まとめておきたいと思っていたので、2ちゃんねるからの転載は、ありがたいです。

ただし、私がそれら一つ一つに言及していくことは、私個人が「2ちゃんねる」(というか、ネット上の不特定多数の人)を相手とした、不毛なディベートに巻き込まれる恐れがあるため、特に必要なければ、私個人の見解をここで述べることは、避けさせていただきたいと考えます。

列挙いただいた中で、私が最も問題と思う発言は、次のもの。

>■「自民公明の推薦支持に全身全霊で応える」→「民主党に感銘を覚え応援したい」

自民党も民主党も応援していない私としては、できれば橋下知事には、私の支持する社民党を応援していただきたいなっとか思います。

保育園の畑については、橋下知事はこのようにのべておられます。
「4月から任意交渉はしている。最大の権力行為なので慎重にやった。最後のイベントをやったら立ち退きます、という話があれば応じた」
http://www.asahi.com/politics/update/1017/OSK200810170027.html

おそらくこれは、ただの詭弁や言い逃れではないでしょう。実際そのような要請があり、「イモホリのイベントが終わったら、即刻土地の所有権を放棄します!」っという保障が得られたならば、橋下弁護士は、強制執行などしようとは考えなかったはず。「因果応報」、「覆水盆に返らず」、「悪銭身につかず」、そのようなむなしさを、私はこの報道に覚えます。橋下知事は、果すべき職務を果したのみであり、それに対し、「この鬼畜生!」、「オイモを返せ!」などという罵声が浴びせられるならば、それはひどく子供じみた発言であり、「共生」というものの大切さを全く鑑みていない、無知蒙昧な、一部庶民による戯言であるとしか、私には思えません。

投稿: 超! | 2008年10月18日 (土) 22時09分

超さん

早速のレスありがとうございます。

橋下さんが果たすべき職務を果たしただけであるということは私も全く異論がないのです。人に嫌がられる決断をしたのですから、そのこと自体は立派だと思います。
ただ、問題は、そのやり方にあるわけです。代執行を行うのであれば、例えば予定日の1ヶ月前には保育園の方に連絡をして、園の方から芋掘りの予定がある、という主張が出てきたのなら、それを調整すべく努力するなどの配慮があってよかったはずです。そうすれば、園側にいかがわしい計算があったとしても、それを封じ込めることができたと思います。また、一番まずいのは、「保育園が子供の涙を利用した」などとメディアを通じて批判したことです。もともと、園側は、畑の所有権を全体利益のために、強制収容されるという気の毒な立場です。それをこのように批判するというのはいかにもまずい。しかも、本当に園が写真に写った子の涙を利用したのか。そのあたりは、きちんと確認していないでしょう。園側の弁解にあるように、保護者が園児を連れてたまたま通りがかったかもしれないのです。このように、不用意にその場の勢いに任せて相手を攻撃する。タレントとしては許されても、知事としては、このような軽々しい言葉の使い方は許されません。

橋下さんは自らの墓穴を掘っていっているように思えるのです。

投稿: 指摘マン | 2008年10月19日 (日) 00時11分

指摘マンさん。

 ある一つの事象(橋下知事の言動)を観察する二人の観察者の間で、これほど違った感情がわくということに、今私は驚いています。このような違いがどのような要因から生まれるのか考えてみました。
 まず第一には、「橋下知事の思想に共感できるか否か」でしょう。彼の言動、発生する大小様々な問題に対する彼の対応から、彼の真意を読み取ると、私はその考えの深さに驚嘆せざるを得ません。それが彼の「非凡さ」であり、「能力の高さ」であり、また同時に、知事として危うい部分でも、あるわけなのでしょうね。

>一番まずいのは、「保育園が子供の涙を利用した」などとメディアを通じて批判したことです。

 確かにまずい言動です。しかしそれは、「一般常識」で考えてのことであって、すでにこの問題(高速道路のための土地の買収)が、一般常識では語れない舞台(裁判の場)にまで駒を進めているのですから、「知事という立場での発言としていかがなものか」という観点から批判することも必要なのは確かですが、それに加えて、「戦略的に有効かどうか」という観点でも、評価する必要があると私は考えます。その観点で見れば、「子供の涙を利用している!」っという自分の主張をまずポンと提示しておくことは、マスコミや、この件に関する第三者である立場の一般庶民への牽制としては、必要かつ十分な情報提示であったと私は思います。メディアスクラムの怖さをわかっている橋下弁護士だからこその言動ではないでしょうか。
 ただこの辺、指摘マンさんも指摘されていると思いますが、「知事」的ではなく「弁護士」的なやり方ですね。それを「良し」とするか「まずい」とするかで、橋下氏に対する判断が分かれるのかもしれません。

 保育園への連絡は、10日前にしたそうですね。「10日前なんて遅すぎる!」っというのはあるかもしれません。その点、今後はもっと早く連絡を入れる、という改善案を考えるべきなのかもしれませんね。

 観察者の感情の違いに関するもう一点は、観察者自体がどのような存在であるか、でしょう。私自身、彼と似たような言動を、日常生活で取ることが多いです。過剰なほどのリスクを想定し、あらかじめそれを封じる手を打つ。蟻さえも入り込む隙間もないほどの防護壁を作り上げ、ようやく安心する。そういった性格の私から見ると、橋下知事の言動というのは、一々的確であり、またその判断が、瞬時になされている(ように見える)から、驚嘆させられ、尊敬もさせられてしまうわけなのです。例えば知事選出馬もそうです。私が見る限りでは、あれは人気取りが目的だったのではなくて、様々なリスクを考慮した上で選び取られた、彼が取ることの可能な唯一無二の正解手、だったのではないかと、あのとき私は思っていたし、今でもそう思ってます。

投稿: 超! | 2008年10月19日 (日) 09時40分

超さん

>戦略的に有効かどうか」という観点でも、評価する必要があると私は考えます。その観点で見れば、「子供の涙を利用している!」っという自分の主張をまずポンと提示しておくことは、マスコミや、この件に関する第三者である立場の一般庶民への牽制としては、必要かつ十分な情報提示であったと私は思います。

そう、戦略的にどうなのか、という観点です。そこに失敗していると思うのです。確かに、保育園側にいかがわしさがあるということを伝えることは戦略的に必要です。しかし、「子供の涙を利用している」、さらに「卑劣だ」と口角泡を飛ばしてまで批判するのはいかがなものかということです。仮に、子供の涙を意図的に利用していないことがはっきりすればどうなるでしょうか。また、そもそも、所有権を奪われるという犠牲者です。その犠牲者に対して、「卑劣だ」とまで批判することは、結局は、橋下さんは弱い者の味方ではない、という印象を与えてしまうことになります。現に、ネット世論を見ている限りは、かなりの橋下支持者の離反を招いたように思われます。
このように行き過ぎた言葉を使ったことが、懲戒請求扇動訴訟で敗訴した原因ですが、橋下さん自身、自分のそのような問題を全く克服できていません。

この「卑劣」発言は、下手をすると名誉毀損として訴えられかねないものです。こういう危ないリスクを冒すことを繰り返していけば、いつかは必ず大きなしっぺ返しを受けることになります。

同じ言うのなら「子供にまで、代執行の現場を見せるようなことになってしまったのは遺憾だ。あらかじめ、代執行の日時は園側に伝えていたのだから、教育者として然るべき配慮をして欲しかった。なぜ、あの場に園児がいたのか、疑問に思う」程度の発言で充分なはずです。そこで、視聴者は園側のいかがわしさに気づくはずですし、その後の評価は視聴者や、それこそその他のタレントに任せればいいのです。
過激な発言はタレントであれば受けるのでしょうけど、政治家としては多いに問題ありです。

投稿: 指摘マン | 2008年10月19日 (日) 10時41分

指摘マンさん。

>子供の涙を意図的に利用していないことがはっきりすればどうなるでしょうか。

 利用した、あるいはしてない、というのが明確になることはないと思います。第三者は状況から判断し、推測するしかありません。それはこの件だけでなく、世の中の、人間がからむすべての現象について言えることですね。
 だから保育園側が「名誉毀損である」と判断することは十分にあり得るし、訴訟を起こされるもやむなし。場合によってはその裁判で負けるかもしれません。

 しかし、もし橋下氏のそのような発言がなかったら、最悪の場合どうなるか。あまりに恐ろしいのでここには書きませんが、その「最悪のシナリオ」に比べ、橋下弁護士の評判が下がるとか、支持者が減るという程度のことは、取るに足らないことだと思います。ですので、彼があのような暴言を吐くのも、戦略的に有りだと私は判断します。

 また、茶髪のおちゃらけタレント弁護士であった頃の橋下支持者は、確かにこの件で、橋下離れを起こすかもしれません。けど、この件がきっかけで逆に、「なかなか、橋下くんも、やりますなー」とかおっしゃり、新たに橋下支持者となる方も、同じくらいいらっしゃるのではないかと、私は考えます。この件における、橋下知事の過激な発言は、そういった方々に向けて、あらかじめ用意されていたメッセージなのかも。

gooの「ニュース畑」でこのような議論がなされています。
http://news.goo.ne.jp/hatake/20081017/kiji2551.html
園児のイモをなぜ抜いた? 大阪府の行政代執行に橋下知事の手腕を疑う

 これを見る限り、保育園側の態度に非があると思われている方が多そうです。自分は一部の方の反感を買い、訴訟を起こされようとも、このように問題点を衆目にさらしてその是非を問う、こういった橋下知事のやり方が正しいのかどうか、またそれが「橋下流」なのか、それともヒールに徹しているだけなのかまでは、私にはわかりませんけど、これが今後推し進められるべき、新たな政治の仕組みなのかもしれないなー、なんて思ったり思わなかったり。

投稿: 超! | 2008年10月19日 (日) 12時27分

超さん

>この件がきっかけで逆に、「なかなか、橋下くんも、やりますなー」とかおっしゃり、新たに橋下支持者となる方も、同じくらいいらっしゃるのではないかと、私は考えます。この件における、橋下知事の過激な発言は、そういった方々に向けて、あらかじめ用意されていたメッセージなのかも。

もともと橋下さんの人気は、彼の過激性が、制度疲労した行政に立ち向かって何かを変革してくれるのではないか、という期待感へ繋がってのことだと思うのです。そして支持層は、懲戒請求扇動事件で支持した人たちのように、感覚的・感情的な面から支持に回る人が多く、「庶民の味方」という印象で支持してきたと思うのです。

その彼の過激性が、行政という権力に向かうのではなく、実は庶民に向かうこともある、ということがはっきりしたのが今回の代執行の問題だと思います。

熱狂的な橋下信者の人たちは、今回も、いろいろなところで行われている議論で、橋下さんを応援しようとしていますが、そうでない中間層の人たちは、少なくとも感情面ですっきりしないというか、複雑な思いを抱くことになったと思います。

投稿: 指摘マン | 2008年10月19日 (日) 15時50分

指摘マンさん。

 私自身は、橋下弁護士の過激性に惹かれて彼を応援していたわけではないし、また彼の扇動にのって懲戒請求を出された方々も、単に橋下弁護士の煽りにのっただけで、懲戒請求されたのではないと思っています。例えていうならば......。

 「裁判制度」という城壁に囲まれ、お城でおいしいものを食べてくらす、ソフィスト達。あまつさえそのソフィスト達は、周囲を取り囲む民衆に対して、唾をはきかけ挑発などするのですけれど、正面の頑丈な門は閉ざされ、どのような道具を用いて打ち破ろうとするも、びくともしない。憤懣遣るかた無い愚民達が歯軋りをしているそのときに、ある一人の男がこう言ったのです。
「おい! お前たち! 俺様がこの城に入る道を教えてやる。俺様について来い!」
かつてはソフィスト達の一員であったその男は......。裏切り者の烙印を押されることも辞さず、愚民達による「反乱」を自ら手引きしたのでありました。その先に、数多くの衛兵が集結しようとしていることは知らずに......。

その、ある男の導きに従った多くの愚民がいたことは、「この人が何か変えてくれそう」、などという曖昧模糊とした感覚的なものではなく、明確な最終目的があってのことだったはず。だからこそその最終目的こそ達せられなかったものの、そんな自分達の気持ちをかなえるべく、自らの不利益も臆することなく、自分達を導いてくれた彼のことを信頼し、支持しているのですね。

橋下弁護士が信頼され支持される理由。それは「過激な発言」でも「何かやってくれそう」という曖昧な期待感でもなく。「自分の置かれた立場とは無関係に、論理的に、何が正義か、何が悪かを見極め、状況を打開するために自ら最大限の努力をしようとする、悲壮なまでの純粋さ、健気さ、頑なさ」であると、私は思っています。

だからその相手が何であろうと、例えそれが庶民であろうと彼にとっては関係ないし、また彼を支持する人達にとっても、そこに矛盾を感じる必要はないのです。

「悪法もまた法なり」。ソクラテスはかつて、そう言って自らの死を許容しました。しかし橋下弁護士はそうじゃなく。「悪法もまた法なり」と受け入れた上で、その悪法を、自ら変えていこうとしているように思えます。その点、彼は「現代のソフィスト」、「現代のトリックスター」であるとともに、「数千年かけて、進化をとげたソクラテス」、であったりするのかもしれません。

正直、褒めすぎな気も、しないでもないですけどね。

投稿: 超! | 2008年10月19日 (日) 17時48分

超さま

光市事件の弁護団の人たちを「ソフィスト」たちと思われているのであれば、それは近代法の精神と事実認識を大きく誤られているというほかありません。

その点について長々と話しをしだすときりがありませんが、以下のスレッドで大阪の女性弁護士さんが丁寧に解説をしていますので、いちど目を通されておかれてはどうでしょうか。

http://www.ytv.co.jp/takajin/bbs/bbs_res.php?bbs=BBS3&thread=1934

http://www.ytv.co.jp/takajin/bbs/bbs_res.php?bbs=BBS3&thread=2156

http://www.ytv.co.jp/takajin/bbs/bbs_res.php?bbs=BBS3&thread=2366

投稿: 指摘マン | 2008年10月19日 (日) 19時07分

指摘マンさん。情報ありがとうございます。感謝します。

今ひとつだけ言えること。

弁護とは、被告が本来与えられるべき権利を、不当に奪われることを防止し、被告を保護することのみを目的としたものであって、被告が減刑を「勝ち取る」ためにあるものではないということ。私の現時点での気持ちは、そんな感じなのですが。

 全部読むには、少し時間がかかりそうです。また一週間ほどお時間ください。すみません。

投稿: 超! | 2008年10月19日 (日) 22時01分

超さん

こんばんわ

>弁護とは、被告が本来与えられるべき権利を、不当に奪われることを防止し、被告を保護することのみを目的としたものであって、被告が減刑を「勝ち取る」ためにあるものではないということ。

あるべき事実、あるべき量刑というのはどのようにして決まるのでしょうか。神様しかわからない事実、量刑というものと、訴訟法的真実、量刑というものを区別して考える必要があります。これも、近代司法の根幹に関わる問題です。

それでは、またしばらく後に・・・

投稿: 指摘マン | 2008年10月19日 (日) 22時15分

今ようやく、2007年9月13日まで読みました。一つ一つ詳細に分析させていただいているので、時間がかかってます。思ったより時間がかかりそうなので、少しずつ今の気持ちを書いていくことにしました。

正直、橋下弁護士に賛成している意見は、感情的なものが多いですね。でも、庶民の気持ちとしては、それでいいと思う。逆に弁護士さんの立場での、感情をあえて押し殺した意見もある。これもまた別に、私は反対はしません。

私としては、本村氏に感情移入しているだけ。そして本村氏の冷静さに驚嘆し、心から彼を支援したいと思っただけ。だから橋下弁護士の件は、私にとっては、やっぱり「そこから派生した小競り合い」でしかないのです。そんな小競り合いで、人生における大きな岐路に立たされた橋下弁護士を、私は気の毒に思うし、そんな小競り合いに執着した弁護団の一部の方に、私は哀れみと怒りを感じたり。事の本質を見誤っているのは、あの弁護団による弁護を支持する方々であると、相変わらず私は思うのですが......。

何か心境の変化があったら、また報告します。

投稿: 超! | 2008年10月21日 (火) 00時59分

超さん

こんばんわ。
最初から全部のレスを分析しながら読むと大変だと思いますよ。大変な分量ですし、特に橋下さんを擁護する意見の中には、論理的に破綻していたり、混乱しているものが多いので、論理を追いながら読むとわけがわからなくなってきます。まずは、弁護士さんのレスだけをざっと追っていくのが手っ取り早いと思います。

投稿: 指摘マン | 2008年10月21日 (火) 01時55分

指摘マンさん。

 私は、この事件(光市母子殺害事件)の裁判を知ってからこれまで、ある一つの疑問を持っていました。そんな私の疑問が、これまでマスコミや庶民のブログで語られたことは、私の知る限りでは、ありません。

その疑問は、指摘マンさんのおっしゃる、「神様しかわからない事実、量刑というもの」に非常に近いものであり......。もし可能であれば、そういった議論がどのあたりでなされているか、示していただけますか? 少なくともそこだけは、熟読してみたいです。

私の感じた疑問......。
それを明かすのは、その後にしたいのですが、今日は光市母子殺害事件を知った直後に私が書いた小説を、ここに披露しておきます。この小説を書いて以来、私の疑問は全く解決はされていないし、私の気持ちもこのときから、全く変わっていません。

社会派小説・「隠滅された殺意」

 裁判長は、ぐったりと肩を落としてうなだれた。目には目を。歯には歯を。そんな法律のあった時代がうらやましい。この現代日本の法律は、腐るところまで腐りきっている。犯人に殺意があったかどうかを第三者で寄り集まり、うだうだと議論しその結果で判決の重みが変わる……って、ちょっとおかしい、というか、明らかに異常だ。「はあ……」、と裁判長は、誰にも聞こえないほどの小さな声で、ため息をついた。静まり返った法廷の中で、そんな微妙なため息をつくことは至難の業であったが、百戦錬磨の古株であるこの裁判長にとっては、なんでもないことだった。

 裁判長はこう思っていた。この被告に、殺意があったかなかったかなんて、どうでもいいことなんじゃないのかな? 重要な事実はこの被告が人一人を殺しているということであるし、その遺族の苦痛は、この被告に殺意があったかなかったかなんて、全く関係なく生じているんだ。もしこの裁判において、被告に殺意がなかったということが証明されれば、遺族の方々は、

「ああ、殺意が無かったんだ。じゃあ殺されても仕方ないね……」

などと割り切ることが出来るかというと、絶対にそんなことはあり得ない。じゃあこの場で、被告の殺意の有り無しを大の大人達がわいのわいのと議論することに、一体何の意味があろうか、と裁判長は考えていた。被告の弁論は続いていた。

「だから、俺はあいつが死ぬなんて思ってなかったんだ。これっぽっちもだよ。だって俺頭悪いもの。人間の身体のどこになにがあるかなんて、全然知らないからね。知ってたらそんなとこ殴らないもの。だからあいつが死んじまったことがもう、俺に殺意がなかったっていう証明になるよね? 事故だったんだよすべて。事故事故。あはは!」

被害者の遺族が悔しそうに、無言で握りこぶしを振り回している。裁判長は、見ていられなくなり、顔を横に向けて窓の外を見た。青空が美しかった。まるでひばりでもないていそうな、ぬけそうな青空だ。裁判長は泣きたくなった。

 神は私に何をさせようとしているのか、と裁判長は思う。この反省の気持ちの全くない若者を、有罪とすべきか無罪とすべきか。その判断基準は、判例によれば殺意の有無だ。だが判例って何だろうか? それは将来、その判例を考慮した上で、有罪無罪ギリギリの線での悪事を働いてやろうなどという不徳の輩が出現することを考慮してのものだったのか。いや違う。判例というのは、その時代の良俗をもって判断のなされた、最善の妥協点でしかないのであって、その判例のさらに隙間をぬって、あえて悪事を働こうなどという将来出現する未知の犯罪まで考慮したものではあり得ない。だったら判例なんて無力じゃん? と裁判長は自嘲気味に思い、ふらりと席を立った。

「しばし、休廷……」

そう言って扉に向かう裁判長に、待ってましたとばかりに、聴衆からの怒号の声が浴びせられた。裁判長がちらりと被告を横目で見ると、被告もまた、上気した顔で裁判長に向かって、吼えたけっていた。「ふん、お前がいうなよ」、と心の中でうそぶきつつ、裁判長は廊下によろけ出て深呼吸した。ふん! 判例なんて関係ない。あいつは私の手で死刑にする。それがあの場に私が立たされたことの持つ意味であり、神の意思なのだ! と裁判長は思ってニンマリした。

「よーし、やったるでー!」

と叫び、裁判長は再び法廷に入っていった。その肩はいつもの自信に満ち、おうおうとした威厳を取り戻した。あまつさえ、まばゆいばかりの後光さえもはなっていたとかいなかったとか……。

<おわり……。>

投稿: 超! | 2008年10月21日 (火) 21時48分

超さん

こんばんわ。

真実というのは、神様しかわかりません。
人間は、その真実に近づく努力をするだけです。
そして、その真実に一番近づける方法が、民事であれば原告と被告が、刑事であれば検察と弁護側が、それぞれ主張・立証を闘わし、中立公平な裁判官が、双方の主張・立証を聞いた上で、判断をするという、当事者主義的訴訟構造です。
この方法が、今のところ、一番間違いが少ない構造だと言われています。

しかし、それでも、真実そのものではありません。訴訟法的真実であって、神様にしかわからない真実に近いけれども、真実であるという保証はありません。

しかし、そのように不安定な「真実」によって、えん罪が生まれてはいけませんから、被告人には無罪の推定という原則が適用され、検察側の立証責任を重くすることにより、できるだけ、えん罪が生じないようにしているわけです。

殺意の認定についても、裁判所による判例が積み重ねられており、被告人の弁解のみで判断するのではなく、客観状況から判断するよう努められています。例えば、ナイフで刺した場合に、殺意があるか否かは、刺した箇所が体の中心部かどうか、刺した深さはどのくらいか、ナイフの刃渡りはどの程度か、振り回して傷つけたのか、それとも刃先を被害者に向けて一直線に刺したのか、そういう客観状況から殺意を認定するよう、基準が積み重ねられてきました。

絞殺の場合も、どの程度の時間、首を絞めたのか、どのくらいの力が加えられたのか、それを剖検によって明らかにして、殺意の認定が行われます。

光市の事件では、弁護団は片手でのど元を抑えてのけぞるような形を取ったと主張し、検察は両手で首を絞めた、と主張し、双方の主張が対立したわけです。当然のことですが、両手で首を絞めた方が殺意が強かったことになります。

弁護団は、片手で首を絞めたことを立証するために、2通の法医学鑑定を提出し、また、それを補足する形で、被告人の精神面からアプローチするために、精神鑑定を行ったわけです。いずれも裁判所には採用されませんでしたが。

投稿: 指摘マン | 2008年10月21日 (火) 22時22分

上記で述べたことですが、法律をすこしかじった人には常識的な知識です。

ウェブ上でも、「当事者主義(的訴訟構造)」「訴訟法的真実」「実体的真実」「無罪の推定」「殺意の認定」などのキーワードでググって見れば、いくらでも見つかると思います。

投稿: 指摘マン | 2008年10月21日 (火) 22時30分

さらに追記ですが、

殺意の有無については、上記のように判例で基準が積み重ねられてきていますが、それは、通常、それだけの物理力をその方法で加えれば、相手方が死に至るであろうと思われる程度の物理力が加えられたか否か、という観点から基準を積み重ねてきたわけです。

そして、その方法で物理力を加えれば、必ず死に至るであろうという場合の加害者の主観面を確定的故意とし、必ず死に至るとは限らないが、少なくとも死んでしまっても良いと思ったであろう場合の主観面を未必的故意としています。

未必的故意でも、故意があることには変わりがなく、殺人罪が成立します。ただし、情状面では確定的故意の場合に比べて、軽くなります。

投稿: 指摘マン | 2008年10月21日 (火) 22時35分

指摘マンさん。

 人の心というものは、神様にしかわからない。確かにそうなんですよね。かつてそのような状況を打開すべく、「ウソ発見機!」、っというものが開発されたのですが、あまり信憑性がないため、現在では使われていないと認識しています。

 結局何が本心かはわからない。犯罪に手をそめた、張本人でさえも。そういった状況を踏まえ、最善の道を選択すべく進化を遂げてきた結果が、近年の裁判制度なのかもしれませんけど、そのよりどころとなるものが、結局「心理学」、っという、客観性の極めて薄い、極論を言えば「疑似科学的」なものに過ぎない現状では、「やったもん勝ち」、「やり込めたもん勝ち」、「稼ぐが勝ち」、という、極めて独善的な主張がまかり通る、無法国家に成り下がる懸念が、無きにしも非ず、と私は危惧せざるを得ないのです。

 現代の裁判制度が、最善の道を歩むべく努力されているのは、認めざるを得ない、というか、その愚直なまでに真摯な態度には敬服するばかりなのですけど、「もっと単純な解決策はないのか」、っと私は思うのです。その解決策が、原初の法制度である、「目には目を」、「歯には歯を」なのではないかと。その点、青山大学のとある准教授さんが、「光市母子殺害事件の被害者は、1.5人であると判断すべき」、っとおっしゃられ、強烈な批判を浴びてらっしゃいましたが、そういう、幾何学的、数学的なアプローチも、ある意味ひとつの解への近道なのではないかと、私は思ってしまったりもするのです。

「人の心は、神にしか認知し得ない」。

その事実を認めた上で、唯物論的な観点から、極めて冷酷に、客観的事実のみを元に、量刑を算出する方法を模索する。それこそが、今法曹界がなすべき、脱構築(古き理念を検証し、否定すべきは否定することによって、さらなる進化を遂げようという、近代哲学における一つのアプローチ)、なのではないかと。

法律に関してはど素人の癖に、偉そうなことを書いてしまってすみません。でもこの問題、本当に深い問題だと私は思ってます。マスコミの方とか、一般のブログの方とか、法律に関する識者の方々は、あえてこの「本質」から目をそらそうとしているようにさえ、私は感じています。決してそんなことはなく、指摘マンさんのように、「人間の限界」を認識した上で、あの弁護団による弁護を「やむなし」とされる方もいらっしゃることは、私にとっては、本当に貴重な発見であったのは事実なんですけれどね。

私は、「現代日本における弁護士は、全員がソフィストである。間違いない!」、とは思っていません。人間の認識というものの限界をこれっぽっちも省みようとせず、「仕事なんだからしょうがなかろう!!」っとか主張される方が、私にとっての「ソフィスト」なのです。いわゆる「無知の知」、というやつですね。

投稿: 超! | 2008年10月21日 (火) 23時15分

指摘マンさん。私も少し追記を。

あなたとこうやって、互いに本心を語り合う機会を得ることが出来て、本当に幸せに思います。

私はこの問題から身を引くべきなのかもしれません。

このエントリは、ずっと保存しておきたいな、と思ってはいますが、私ももう少し、自分を省みなければならないと感じています。

投稿: 超! | 2008年10月21日 (火) 23時39分

超さん

こちらこそ、このようにしてお話し合いが出来ることは、私にとってとても有意義に感じており、感謝しております。

事を詰めて考えていくと、最後に行き当たるのは、人間の知性(理性)と感情の関係であると思います。

動物にも恐れとか、えさが与えられる時の喜びとか、感情があります。愛犬を見ていると、それはよく分かります。しかし、その感情は原始的なものです。
人間にはもっと高度な感情があります。例えば、尊敬とか、愛情、特に男女間の愛情よりも、社会的な愛情、隣人に対する愛情、羞恥心・・・。
社会の中に生きる動物として、人間にはとても高度な感情が備わっています。これは進化によって取得したもので、感情というのは決して低く見られるべきものではありません。人間が他者とともに生きていくために、必要不可欠なものとして、このような「社会的感情」が生まれたのだと思います。

そして知性。これは言語を獲得することによって、人間に備わったものです。知性=言語とは何か。それは区別し、分類し、分類対象にネーミングすることから出発します。例えば、「山」と「丘」の区別。自然状態では、本来、山と丘なんて区別できるものではありません。しかし、人間は、山と丘を区別し、差異化し、それぞれに名前を付ける。これが言語の本質的作用です(この差異化という本質を発見したのは有名な言語学者のソシュールです。彼の力によって構造主義が生まれました)。

法律とは、言語によって記述されるものです。言語によって、差異化し、差異化した対象にそれぞれ法律効果を与え、それによって社会を規律するものです。壮大な理性の体系です。その中に人間の様々な感情も盛り込み、コントロールしようとするものです。

しかし、言語=理性の体系であるがゆえ、言語に必然的に伴う曖昧さという問題、言語の境界はどこかという問題がつきまといます。それでも「山」と「丘」を区別して、それぞれに法律効果を与えていかねばなりません。

殺人とは、人を殺そうと思って殺すこと。単純です。でも、そこにいう「人」とは何なのか。胎児も含まれるのか。脳死状態の人も含まれるのか。「殺す」というのはどういうことか。植物状態に陥らせることも「殺す」ことなのか。常に境界は曖昧です。でも、基準を作って区別していかねばなりません。
そう、「殺そうと思って」というのはどういうことなのか。これが殺意の問題です。では「思う」というのは? 統合失調症で人格が完全に崩壊し、(誤解を恐れずに言えば)もう機械と変わらないような状態になってしまった人にまで、「思う」ということが観念できるのか。

近代の司法というのは、人間とは何か、という根源的な問題の考察抜きでは、理解することができないのだと思います。

投稿: 指摘マン | 2008年10月22日 (水) 00時21分

追記です。

人間とは何か、司法とは何か・・・

この問題を考えるにあたって、責任能力の問題に触れておかねばなりません。なぜ、責任無能力者は無罪とされるのか。

それは、近代司法というのが、人間の「意思」の力に根源を置いているからです。「意思」を持たない者は人間でない、とまで言えば極論になり、不適切な表現になってしまいますが、少なくとも、法律で規制すべき対象からははずれます。

それから、ハムラビ法典が適切か?
車を走らせていて、横から人が飛び出てきたため、うっかりひき殺してしまった場合、その人は死刑になるべきなのか?
尊属殺処罰規定が違憲とされた事件はご存じですか。そのケースでも、やはり親を殺した以上、子供は死刑になるべきなのか。
何年も病気の夫を看病し、看病に疲れ切って、身も心も病んでしまい、無理心中しようとして失敗し、自分だけ生き残ってしまった妻は死刑になるべきなのか。
いじめにあい、陵辱され、自殺しようと試みるまで追い詰められた少年が、いじめをする相手を刺し殺してしまった場合でも死刑になるべきなのか・・・

どうなんでしょうね。

投稿: 指摘マン | 2008年10月22日 (水) 00時51分

指摘マンさん。

 差異。そう! 差異なのです。私自身にもよくわかってませんでしたが、私の考える「本質」とはこれかも。

「性欲目的で人様の部屋に押し入り、奥さんと赤ちゃんを殺し、死姦する」という行為と、

「お母さんに甘えたいという気持ちで人様の部屋に入り込み、過失によって奥さんと赤ちゃんを殺し、奥さんを復活させようとして死姦する」という行為。

 これらの行為の間の差異がそれほどあるとは、庶民には理解できないのですよね。殺意があったか否か。それは法的には、とても重要な基準なのかもしれませんけど、そのなした行為が凶悪であればあるほど、殺意の生むなんて、取るに足らないことに感じられる。

ご遺族の受けた強烈なショックに比して、被告の殺意の有無なんて、ごくごく、些細なことでしかないのです。

 交通事故のような、日常にありふれた事故を論ずる際には、殺意の有無というのは、大きな判断の基準となるでしょう。痴漢行為などの冤罪もそうですね。
 しかし自分の身分を欺き、人様の家に上がりこんだ上で、その家庭の幸福を破壊するという行為は、決して日常的なものであってはならず、いわば日本の安全を揺るがす、「テロ行為」と等価、と考えることもできます。それほどこの事件が、日本国民に与えた影響は大きいのですよ。

 そういう影響を考慮しながらも、「いや、殺意がなかったから死刑は不当! 無罪が相当!」、という主張は、狂気のなせる業とも思えます。

もう一度書きます。

「性欲目的で人様の部屋に押し入り、奥さんと赤ちゃんを殺し、死姦する」という行為と、

「お母さんに甘えたいという気持ちで人様の部屋に入り込み、過失によって奥さんと赤ちゃんを殺し、奥さんを復活させようとして死姦する」という行為。

これらの間に大きな差異があると考えるのは、ある意味冷静で論理的な考え方ではあるけれども、「すでに現実を遊離し、メタな領域に入り込んでしまった」判断でもある、と私には思います。

「言語によるコミュニケーションの限界」を利用し、裁判においてメタな議論を展開すること。知的な遊びなら許されるかもしれませんが、人の生き死にが生じた事件の裁判で、さらに人(被告)の生き死にを左右しようという極めて重要なポイントにおいて、そのようなメタな議論を展開したことが、弁護団の「誤り」だったのではないでしょうか。

 殺意の生むなんて関係ない。そう思わざるを得な い、そんなおぞましい、凶悪な犯罪が発生したときでさえも、「殺意がないから無罪だ!」「殺意がないから無罪だ!」っとオウムのように叫ぶこと。

それが本当に「正義」なのでしょうか。

投稿: 超! | 2008年10月22日 (水) 22時05分

超さん

殺意がなく人を死なせた場合は、傷害致死。法定刑は3年以上の有期懲役。

殺意をもって人を死なせた場合は殺人。法定刑は死刑、無期、もしくは5年以上の懲役。

このように定めたのは誰ですか。これを定めた人の意思を無視して勝手に感情にまかせてしまうことが正しいのでしょうか。

法治国家における正義とはなんでしょうか?

法治国家において、法を定めたのは国民の代表である議員から構成される国会でしょう。その法律を厳格に守り、運用していくように、国民は司法に命令しているのです。

最近、いろいろなところで紹介されている言説をご紹介しておきます。

なだいなだ『人間、この非人間的なもの』[ケシカラニズム考]より。※ケシカラニズムは、なだ氏の造語です。

「ケシカランというのは、個人の感情としては、怒りにむすびついています。しかし、個人の怒りが、防衛本能に結びついていて、自分が他人によって傷つけられ、いためつけられることによって生まれ、そこまで押しこめられていた攻撃性の蓋をとることになるのに対して、ケシカラン感情は、それにどう結びつくのでしょう。

 自分はなにも傷つけられていない。傷つけられて怒っているのは他人。その怒りを見て、「それがどうした」と いっていらられれば、自分とその男の間には、なんのつながりもありません。もし、その男の怒りの対象に対して、自分もケシカランという感情を持つことができれば、そこにケシカラニズムによる人間間の連帯が生まれます。その男の怒りの対象に、ケシカランと思う第三者たち同志も、それによって結びつけられるのです。

その点では、ケシカラン感情は、社会正義の感覚の出発点をなしているのだといえます。自分の知らぬ、第三者と第三者との間の争いを傍観することができなくなり、どちらかの立場へと立たせるもの、それがケシカラン感情であり、その時の自分の行動を正当化するものとして、社会正義が必要とされるのです。もし「それがどうした」とつぶやいていたら、そこには社会正義は生まれないでしょう。

しかし、このケシカラニズムと理性的社会正義の感覚とが混同されてはなりません。ケシカラニズムは、いいかえれば理性的正義ではなく、感情的正義であり、瞬間の正義であるといえるでしょう。ケシカラニズムが、感情といううつろいやすいものに結びついているのに対して、理性的社会正義はより永続的なものに固定されています。

そもそも、怒りと、それに対する報復とは孤独な人間の行動のパターンでしょうが、それが、社会的なひろがりを持つことで、法の原形は生まれたのでした。法は、報復を形式化し、個人的な報復行動を公的なもので代行させることでなりたったのです。こうして、‘個人の行動の社会化が行われるにともなって、感情の社会化が行われ’、怒りは、ケシカランに変り、社会化された報復行動を支持する、社会正義へと変形していったのです。
私たちは、民衆の社会正義感覚にもとづいた連帯に、ケシカラニズムの基盤があることを認めねばなりません。

それは、感覚的正義であり瞬間的正義であり、純粋正義であるので、民衆運動の原点だといえます。しかし、同時に、それこそが、私たちをファシズムへ参加させる危険を持つものでもあるのです。社会正義的感覚のみじかさが、持続のなさが、その原因なのですが、過去において、ケシカラニズム的な日常感覚が、ナチズムにどれだけ味方したかを考えれば、これからもよほど注意しなければならないでしょう。」

投稿: 指摘マン | 2008年10月22日 (水) 23時15分

指摘マンさん。

ケシカラニズム。それはキルケゴールの言う「ルサンチマン」に近いものでしょうか。

私の場合、確かに社会的に虐げられており、ルサンチマン的な感情を持っているのは確かなんですけれども、それ以上に「感情移入」の度合いが、尋常ではないのです。人の悲しみを見ると、まるで我がことのように、胸が締め付けられるのですよね。それが「怒り」につながる。自分という「相対的強者」が「相対的弱者」に対して出来ることがあるなら、それをしてあげたい。人の悲しみを少しでも軽減できればと。

宮沢賢治さんの、「銀河鉄道の夜」からの引用です。
「僕もあのサソリのように、皆の幸せのためなら百ぺん体を焼かれてもかまわない」

私の考える「正義」とはこれです。たとえその行動の結果が、ファシズムであるとか、ナチズムであるとか、ルサンチマンであるとか言われようとも、私も「身を焼かれるサソリ」でありたいのです。

投稿: 超! | 2008年10月22日 (水) 23時59分

ルサンチマンに近いでしょうね。
自然な感情でしょうが、それが行き過ぎるとどういうことになるか。
ナチ下のドイツで何があったかを考えればよいと思います。

最近の社会は、それが充満していると思います。

投稿: 指摘マン | 2008年10月23日 (木) 00時12分

追記です。

本村さんも、今回の判決を全面的に支持しています。
そのことをよく考えなければならないと思います。

本村さんのコメント
==========================================================
2008年10月3日 毎日新聞 朝刊 14版
「判決は正しい」本村さんが評価
山口県光市母子殺害事件に関連した橋下徹弁護士(現・大阪府知事)のテレビ発言を
巡る訴訟で、懲戒請求殺到で弁護団の業務に支障が出たとして、橋下氏に計800万円の
損害賠償を命じた2日の広島地裁判決を受け、同事件の遺族、本村洋さん(32)が
毎日新聞に談話を寄せた。
本村さんは「現行法に照らし、刑事弁護人の職責、懲戒請求制度の目的を考慮すれば、裁判所の判断は
正しいと思います」と評価。そのうえで、多数の懲戒請求が事件の弁護団に殺到したことについて、
「橋下知事だけの責任とは到底思えません。最近のテレビメディアが事件や政治の難しい問題を
バラエティー感覚で取り扱う傾向があり、その産物であると思います」と指摘した。
「民主主義の根幹を支える『報道のあり方』について、考える時ではないかと思います」とし、
「裁判所は、私たちに『情報を伝える側の責任』、『情報を受ける側の責任』を明示されたのだと思います」
とした

投稿: 指摘マン | 2008年10月23日 (木) 00時32分

超さん

「銀河鉄道の夜」のサソリの話、どうもありがとうございました。
「銀河鉄道の夜」は中学生時代に読んだのですが、記憶が薄れていて、サソリの話について、調べて見ました。

このサソリは、自己犠牲の象徴として描かれているのですね。全体の利益になるのなら、と言って、自分自身を捧げる話です。

そうであれば、このサソリは、光市の弁護団自身がまさに該当するのだろうと思います。

国民は、人権を弾圧する社会が悲惨な結果をもたらすことを反省し、個人の尊厳を最高の価値原理とし、基本的人権を守る社会を作るために、憲法を制定しました(GHQによる押し付け憲法という問題はありますが、9条についてはその議論があっても、個人の尊厳尊重の体系であることに不満を持つ人はほとんどいないでしょう)。

そして、国民は、その憲法、それに基づく法律によって、多数者からのケシカラニズムによるバッシングがあったとしても、身を賭して、少数者の基本的人権を守るよう、弁護士に命令したのです。

光市の弁護団は、このようなバッシングを受けることを覚悟をもって、事件を引き受けています。無償で引き受けています。通常、このような社会から叩かれる事件を引き受けると、顧問先も逃げてしまい、多額の報酬の見込める一般の民事事件の依頼も減小し、事務所経営は大変困難になるそうです。多額の借金までして、事務所を維持したという話はよく聞くところです。子供が学校でいじめにあうこともしばしばだそうです。でも、それが長期的に見た場合、最終的には国民全体の利益になるから、そのような弁護をするよう、国民は命令しているのです。それが弁護士の使命だと思っているから、引き受けるのです。

そして、弁護を遂行するにあたっては、被告人の最善の利益を図るよう行動することを命じ、また、如何に荒唐無稽に見える主張になろうとも、被告人の意向に沿った弁護をするよう、命令しているのです。被告人の意向に反した弁護をすれば、弁護士は懲戒処分を受けます。

自己犠牲の精神がなければ、誰がこのような事件を引き受けるというのでしょうか。

懲戒請求扇動訴訟で、裁判官は、法律をかじったことが少しでもある人には常識とも言えるこのことがわかっていたから、橋下さんに賠償するよう命じたのです(私は法律実務家ではありませんが、大学で法律を勉強していました)。そして、橋下さんに対しては、弁護士の使命、職務が分かっていない、と弁護士失格宣言を行ったのです。朝日新聞の社説は極めて真っ当なものでしょう(あえて判決に乗ったような社説を書く意義がジャーナリズム精神に合致しているのか、という問題はありますが)。橋下さんは、日本の司法の歴史に、その汚名を永遠に残すでしょう。当然、今後は、相当重い懲戒処分が下ることになります。

ケシカラニズムは、自己犠牲の精神に基づくものとは到底言えません。弁護団をバッシングしている人は、別に自分を犠牲にしているわけではありません。バッシングしても、その人は何ら傷つきません。橋下さんは、このようなバッシングのマグマが増大しているのに同調して、さらにバッシングをするよう、視聴者を煽りました。それにより、タレントとして、さらに人気を得ることになりました。しかしながら、橋下さんは、視聴者を扇動しておきながら、自分自身は懲戒請求を行いませんでした。自分自身が行えば、橋下さん自身がすぐに懲戒処分を受けることがわかっていたからです。周囲から、なぜ、橋下さん自身が懲戒請求を行わないのか、と責められ、しぶしぶ、自分のブログで、懲戒請求を行うと宣言しました。しかし、それを撤回し、今度は、1,2審の弁護士に行うと宣言しました。そう宣言しておきながら、いつまでも懲戒請求を行わず、突如、知事選に出馬すると表明し、うやむやにしてしまいました。そして、自分が扇動し、違法行為の可能性の高い懲戒請求を行わせてしまった一般人に対しては、見捨てるような行動を取りました。

そこには自己犠牲の精神など、微塵もありません。私は、このような橋下さんの一連の行動をずっとウォッチングしてきて、彼の人間性の底の底まで見えたような気がしています。

だから、彼のことを奸物だと思っていますが、そのことと府知事としての仕事は別だと思っています。特殊な才能を持っていることは事実です。府知事になった以上は、たとえそれがパフォーマンスであったとしても、結果がよければいい。府政のために、頑張って欲しいというのが私の思いです。非難されるべき点は非難しなければならないし、賞賛すべき点は賞賛すべきだと思っています。そうしていかないと、私自身がケシカラニズムに走ってしまうことになりますから。

投稿: 指摘マン | 2008年10月23日 (木) 10時21分

指摘マンさん。

「身を焼かれるサソリ」について、調べてくださってありがとうございます。

確かに、弁護団を「身を焼かれるサソリ」と解釈するのもありだな、っと、私も思います。

何を信じるのかによって、真実らしきものも変わってくるんですよね。しかし、この件ほど顕著に意見がわかれることも、珍しいなーと思います。

私は指摘マンさんの主張を全く否定できませんし、否定する気も毛頭ありません。重要な問題であるからこそ、色んな意見が出て然るべきであるし、「被告に死刑判決が出たので、一件落着」、とはいかないのですよね。

でも、少なくとも私は、ある理念、ある理想、あるイデオロギー、私の持つある目的に従って、橋下知事を応援しています。彼のメッキがはがれ、私が彼を罵倒する日が来るのかもしれませんが、その日まで私は、彼を利用し、私の理想の実現に向け、不断の努力を続けたいと思うのであります。

投稿: 超! | 2008年10月23日 (木) 21時40分

超さん

そうですね。
人それぞれ、考え方もそれぞれですからね。
法律という枠組みで判断すれば、橋下さんの懲戒請求扇動というのは許されるものではないと思いますが、その枠組みを取れば、いろいろな評価もあり得ると思います。
やむを得ないものとはいえ、犯罪加害者を裁く過程の中で、犯罪被害者が二次被害を追う、そのことをなんとか改善できないのか、橋下さんの手法は間違っていたと思いますが、考えていくこと自体は大切なことだとも思います。

また、すでに述べているように、政治家としての適否の問題は、法律家としての適否の問題とは別であり、私はその点についての橋下さんに対して、全否定はしていませんし、応援している部分はあります。

>私は、ある理念、ある理想、あるイデオロギー、私の持つある目的に従って、橋下知事を応援しています。

議論も尽きてきたとは思いますが、もしよろしければ、超さんの理念や理想、イデオロギー、目的について、このコメント欄であれ、別にエントリーを立てられることであれ、教えていただければありがたいなと思いました。


投稿: 指摘マン | 2008年10月23日 (木) 22時47分

指摘マンさん。

言葉にすると陳腐に思えるかもしれませんけど、今私は、こんな世界の実現を妄想しています。

世界中の人全員が、「個」という考え方を捨て去り、この地球というものを一つの生命体とみなし、その生命の維持のために、可能な限りの努力を尽くし、そして死んでいく。

個人個人が、あたかも人間の脳内のシナプスの一つ一つのように機能し、インターネットという光速に極めて近い手段を用いて、互いの持てる情報、感情をやり取りしながら、混乱と諦念とを克服しつつ、あるひとつの結論に向かって、「集合意識」の安定化を図る。

無くて七癖。人間、ひとりひとりには、当然、欠点もありますが、そういう欠点を互いにあげつらい、その発言権を奪うのではなく、そういった欠点はあえて無視し、発言の「本質」のみを的確に捉え、最善の道を模索し、揺れ動く「集合意識」を、あるべき結論、「イデア」に向けて収束させていく。

そういった仕組みによって機能する社会が、私の理想とする社会であります。

そんな社会においてはもはや、「神」なんていう概念は必要ないし、裁判長なんていう人もいらないし、検察も弁護士も、犯罪者さえも、いらないのです。

そういった社会を実現するためには、まだ人類は、若すぎるのでしょうか。それともそんなユートピアで暮らすことは、人類にとって、ただの生き地獄でしかないのでしょうか。

その結論は、神のみが知りえることなのかもしれませんね。

投稿: 超! | 2008年10月24日 (金) 00時16分

超さん

一言で言えば、「社会的動物」である人間というもののあり方の問題でしょうか。

人間も動物であり、自己保存本能があり、食欲、性欲、自己防衛意識などの原始的な本能があります。

物を持ちたい、金が欲しいという欲があります。それに、自由でいたい、どこに行こうが何をしようが、人にとやかく言われたくないという気持ちもあります。

しかし、他方で一人きりでは生きていけない。孤島で一人きりで生きていくのは寂しくてやりきれません。他者としての関わりの中で、初めて、人間は人間らしく生きていけるのだと思います。

マズローという心理学者の欲求段階説という有名な説があります。これは、人間の欲求というのは、動物としての低次元な欲求から、社会的生物としての高度な欲求まで、人間は段階的に成長を遂げていくというものであり、それによって自己実現を果たしていくというものです。


1.生理的欲求(physiological needs)

生理的体系としての自己を維持しようとする欲求であり、具体的には食物、水、空気、休養、運動などに対する欲求である。

2.安全・安定性欲求(safety-security needs)

安全な状況を希求したり、不確実な状況を回避しようとしたりする欲求である。

3.所属・愛情欲求(belongingness-love needs)

社会的欲求(social needs)ともいわれ、集団への所属を希求したり、友情や愛情を希求したりする欲求である。

4.尊敬欲求(esteem needs)

自己尊厳を希求する欲求であり、具体的には、他人からの尊敬や責任ある地位を希求したり、自律的な思考や行動の機会を希求したりする。後者は、とくに自律欲求(autonomy needs)として、独立に考えられることもある。

5.自己実現欲求(self-actualization needs)

自己の成長や発展の機会を希求したり、自己独自の能力の利用および自己の潜在能力の実現を希求したりする欲求である。

経営者などに広く知られている説で、経営者は、自分自身の利益だけを考えていては、会社は発展していかない、従業員、そして社会全体のために何ができるか、奉仕の精神を持つことで、初めて、本当に会社が発展していけるのだ、という理想とともに、この学説が語られることが多いです。

私も、この5段階の欲求段階の最終段階を目指して、日々葛藤していますが、マズローによると、この自己実現欲求の段階まで達することが出来る人はごく僅かだそうです。

社会の構成員全員が、この自己実現欲求の段階まで達することができるのであれば、それはきっと理想的な社会になるのかもしれませんね。でも、自己研鑽を続けていくだけの意欲と能力を持った人というのも、そんなにいないのが現実だと思います。いくら教育をやっても、それから外れてしまう人が必ずいます。

人間は本来、自由を希求する生物です。その自由は、公共の福祉のために、制限されますが、その制限が行き過ぎると、それは全体主義になり、窮屈な社会になってしまいます。かといって、自由を放置すると、好き勝手する人間が増え、犯罪も増えてしまうのでしょう。個と全体の調和というのは、社会のあり方として、古くて新しい問題であり、永遠の課題だと思います。

投稿: 指摘マン | 2008年10月24日 (金) 01時05分

指摘マンさん。

私は「マズローの欲求段階説」、というのは初めて知ったんですけれど、この説は、どの程度信頼のおけるものなのでしょうか? 私はこの説で言えば、まだ1の段階です。そんな私は、全くの低次元な人間、ということになってしまいます。

それらの欲求は、この資本主義社会における「競争(二項対立)」があるからこそ発生するものですよね? 競争さえなければ、2から5までの欲求は、不要なものだとは思いませんか?

投稿: 超! | 2008年10月25日 (土) 00時57分

超さん

おはようございます。

>私は「マズローの欲求段階説」、というのは初めて知ったんですけれど、この説は、どの程度信頼のおけるものなのでしょうか? 

心理学ですから、今の医学で流行っているいわゆるエビデンスレベルで証明できるようなものではありませんね。エビデンスの考えでいくと、何百、何千という症例を集めてきて、前方視的ランダム化試験を行う、ということで初めて科学的に厳密に証明した、ということになりますが、そもそも、人間の欲求という内心の問題をきちんと測定することなど不可能ですし、その人が人格的にどの程度の立派な人なのか、というのがマズローの説の根幹に関わる点ですが、そのような社会的評価を科学的数値に置き換えることも困難でしょう。

その意味で、仮説に留まると思います。

この説は、そういう科学的証明があるかどうかという点から見るべきではありませんし、そういう観点から支持されているのではないと思います。
ただ、一般人の経験則から言って、「ああ、そうだな」と納得させられる説であり、かつ、一番重要なのは、この説によって、生きる指標が与えられ、元気づけられるということではないかと思います。

>私はこの説で言えば、まだ1の段階です。そんな私は、全くの低次元な人間、ということになってしまいます。

1の段階というのは赤ちゃんレベルの段階ですよ。犯罪を憎むというのは2のレベルに達しています。ブログを公開するのは社会的連帯を求める行為で3のレベルだと思いますよ。

>それらの欲求は、この資本主義社会における「競争(二項対立)」があるからこそ発生するものですよね? 競争さえなければ、2から5までの欲求は、不要なものだとは思いませんか?

正直、仰ることの意味が理解いたしかねるのですが・・・。競争さえなければ、人間は赤ちゃんレベルでいいということなんでしょうか?

資本主義社会でない原始的共生社会でも、立派な村長さんは皆から尊敬され、憧れの対象になり、そのような人になりたいとみんな思うのではないでしょうか。

投稿: 指摘マン | 2008年10月25日 (土) 08時57分

指摘マンさん。

少し話が脱線してしまいましたね。すみません。

推測なんですけれど、「マズローの欲求段階説」というのは、構造主義的アプローチで獲られた結論なのだろうと考えます。つまりそのサンプルの抽出の段階で、分析者の思惑が結論に大きく影響を与えている恐れがあることを意識しながら、その結論を使わねばなりませんね。マズローにとっての「成功者」が、万人にとって「成功者」であるとは限りません。そこが「構造主義」の面白いところでもあり、また欠点・弱点でもあると思うのです。

それは置いておくとして、指摘マンさんのおっしゃる通り、万人が「マズローの欲求段階説」、もしくはそれに近い「健全な」思想に従い、自己の欲望をコントロールしていけば、犯罪率は低下し、罪のない1庶民が理不尽に幸せを奪われるようなこともない、安定した社会に近づけていけそうな気がしますね。

思えば今の子供達は、そういった方向とは逆の教育を受けています。特に「ゆとり教育」の世代ですね。授業の時間が削られ、それによって省略されたのが、道徳の時間や、音楽の時間、技術・工作系の時間だった。加えて有害図書、有害なマンガの反乱。イジメや煽りや犯罪を助長するような、インターネット上のサイトの急速な増加。そういったものに一気に蝕まれ、狂気の中に自分を失い、凶悪犯罪に走ってしまった人達が多くいるのではないかと、私は考えているのです。

投稿: 超! | 2008年10月25日 (土) 14時53分

超さん

こんばんわ。
私も今の学校教育がいいとは思っていません。
もっと、人間関係学を学ばせていくべきですし、社会に出て生きていくための総合的な力をつけさせる教育を受けさせていくべきだと思います。

ただ、最近、治安が悪化しているように感じている人たちが多いと思いますが、これはマスメディアによって作られた印象に過ぎないと思います。
戦後、少年犯罪の凶悪犯は実はずっと減少しているという事実がありますが、なぜか、このことはほとんど報道されていません。

http://kogoroy.tripod.com/hanzai.html

投稿: 指摘マン | 2008年10月26日 (日) 00時51分

指摘マンさん。

>私も今の学校教育がいいとは思っていません。
そうなんですよね。モンスターペアレント、モンスターチルドレンへの適切な対応を含め、学校は大きく変革しなければなりません。
折りしも橋下知事が、昨日もマスコミを利用して、「私学助成金」の是非を、世に問うておられましたね。改革とは痛みを伴うもの。「高校とか大学って、誰もが普通にいけるもの。それが国民の権利」、などという風潮になっているのかもしれませんが、実は本来、そうではない。そういう当たり前のことを、子供達に向かって、子供達と同じ目線で伝える橋下知事のような大人が、もっと増えていかないといけないと、私は思っているし、私もそのような大人でありたいと思うのです。「子供が笑える町に!」っとかいいながら、子供を泣かせてしまった橋下知事。でも、それは橋下知事が抱えていた矛盾ではなく、大阪という町が抱えていた矛盾なのだから、しょうがないことなのですよね。

>ただ、最近、治安が悪化しているように感じている人たちが多いと思いますが、これはマスメディアによって作られた印象に過ぎないと思います。

すみません。「凶悪犯罪」を含め、犯罪件数が減少していることは、私も存じ上げていました。こう言い直しておきます。

「凶悪犯罪」

「この私が、強い知的充足の欲求を覚える、ファンタジー的・ヒーロー的・ヒロイン的思想背景のうかがえる、凶悪犯罪」cat

投稿: 超! | 2008年10月26日 (日) 10時45分

補足です。

「ファンタジー的・ヒーロー的・ヒロイン的思想背景」というのはどういうものかというと、

「愚鈍な警察諸君。僕を捕まえてみたまえ。」、とか。
「私は環境のせいにして逃げるのだよ、アケチ君」、とか、
「死んで、ファンタジーの世界に行きたい。向こうでは攻撃の魔法を使いたい」、

などです。

投稿: 超! | 2008年10月26日 (日) 10時59分

超さん

>モンスターペアレント、モンスターチルドレンへの適切な対応を含め、学校は大きく変革しなければなりません。

教育を受ける権利というのは基本的な権利なんですが、その権利が絶対であるかのように横暴に振る舞うことが問題なのだと思います。権利を行使することは、かならず、誰かの負担になります。その相手方や社会に対する負担のことも考え、相手方に対するやさしさや思いやりというものを持って欲しいですね。これも個と全体の調和の問題だと思います。

>橋下知事が、昨日もマスコミを利用して、「私学助成金」の是非を、世に問うておられましたね。

これも見ましたが、やはり、私は橋下さんは政治家としてまだまだ駄目だと思いましたね。確かに、改革には痛みが伴いますし、府民は、全体が、この痛みを受け止めなければならず、学生であっても同様なのでしょう。そのことはそうなのですが、橋下さんは、単なる「親父」目線で、それを高校生に言ってしまっています。私も、一人の高校生が、私立に行くお金がない、などと愚痴をこぼしたのなら、頑張って公立を目指せ、とか、アルバイトをして学費を稼げ、とか言って励ますとは思います。しかし、助成金が削られる結果となったのは、政治の責任の問題なのです。それを開き直って、政治家自らが、「自己責任を果たせ」「国から出て行け」「自分が政治家になったらいい」などと言ってしまっては、橋下さん自身の政治責任の放棄になってしまいます。

問題は、少ない予算を、府政にどう分配するかという問題でしょう。そこを、わかりやすい言葉で説明していかないといけないはずです。例えば、生活保護にも税金を回さないといけない、ライフラインにも回さなきゃいけない、税収は落ち込むばかり、そういうことをきちんと説明して、その中で、少しずつ、各分野で予算を縮小していかないといけないのが今の現状であること、橋下さんがその調整に苦しんでいることをやさしく説明しなければならないはずです。反感を買うような形で猛烈な言葉で論破するに終始してしまっては、市民の支持も離れていってしまいます。

この点で、無駄な道路を作るより、教育に配分して欲しい、という発言が一人の高校生からあったとき、橋下さんは、「どの道路だ」「自分が必要だと思ったから必要だ」などと独裁者的な態度で圧殺してしまったのは本当に残念でした。問題の第二京阪道路は、その必要性について従来から疑問が呈されてきたものです。その道路建設を、教育に優先させる必要性については、言葉を尽くして説明しなければならないはずです。きっと、深く突っ込まれると橋下さん自身、きちんと説明できないので、このように圧殺する態度に出たのだと私は考えてしまいますし、多くの府民もまた同様であると思います。

ましてや、「子供が笑うまち」というのを公約にして当選した橋下氏。「子供の涙」を「政治的に利用」して当選したのです。なぜ、私学助成金を削減するのか、批判されて当然です。

一人一人の子供について見れば、公立に入れなかったのは、努力が足りない、と批判することは可能です。しかし、全員が公立に入れるわけではない。政治家は、マスとして考えなければなりません。100パーセントに近い子供が高校に行くようになった現状では、公立から漏れた子供も、できるだけ負担の少ない形で高校に行けるように配慮していくのが政治責任です。社会が複雑化するに従って、中卒では、社会にうまく対応して生きていくのが難しくなってきています。国民の教育レベルを上げることが、国力を上げることになることもまた自明の理です。

>この私が、強い知的充足の欲求を覚える、ファンタジー的・ヒーロー的・ヒロイン的思想背景のうかがえる、凶悪犯罪

猟奇的な凶悪犯罪は昔からありました。インターネットの普及や、ゲーム、暴力をあつかった小説、マンガ、映画などのメディアの犯罪に発生に与える影響というのは、統計的にはきちんとわかっていません。ただ、個々の事例を見ていくと、こういうものが影響を与えている事件が増えていることは確かです。それは、もともと犯罪を犯しやすいという器を持った人間に、そのようなメディアが投影されているだけであり、別の時代であれば別の形で同様の犯罪を犯すものなのか、それとも、このようなあたらしいメディアが、犯罪の発生自体を増やしているのか、そのあたりは未検証です。

例えば、幕末には長州藩などから、尊王攘夷論を唱えた志士たちが多数現れ、暗殺に次ぐ暗殺を繰り返しました。一種の狂気といってもいい時代だったと思います。この志士達のうち、一種異常者であったものも多数いたと言われています。

時代が変革し、新しい技術、制度、そういう未知のものが普及すると、人間というのは、本来保守的なものですから、得体の知れない不安を抱くことになります。そういう部分は割り引かなければならないとは思いますが、きちんと検証、研究を行って、規制すべきものとしないものの区別をはっきりしていって欲しいと思っています。

投稿: 指摘マン | 2008年10月26日 (日) 12時37分

指摘マンさん。

確かに、あの件(意見交換会)での橋下知事の発言は、すこし言い過ぎかも、と私も思いました。でも、そもそも20分という予定で開催された会だったそうで、少しそこに無理があったのかな、とも思います。20分という時間は、絶対に短すぎます。稚拙といえば、まずそこが稚拙ですね。結果的に1時間半に延長されたそうだし、橋下知事は、「また別の機会を設ける」と約束されたそうですから、そこでの挽回を期待したいです。

>もともと犯罪を犯しやすいという器を持った人間に、そのようなメディアが投影されているだけであり、別の時代であれば別の形で同様の犯罪を犯すものなのか、それとも、このようなあたらしいメディアが、犯罪の発生自体を増やしているのか、そのあたりは未検証です。

これはただの、私の推測です。また私はただの日曜作家であり、心理学についてはまったくのど素人であり、何の裏づけもない考えであるという前提で読んでいただきたいのですが。またこの件に関しては、私の考えがまとまった時点で別エントリを立て、そこで私の考えを述べる予定ですので、ここでは簡単に触れるのみとさせていただきたいのですが。

小説、マンガ、アニメ・映画、ゲーム、っと、メディアが進化するに従い、またそれらのそれぞれにおいて、さまざまな作品が乱造されるようになったことによって、自分の好む体験を、容易に得ることが、どんどん簡単になっていると思うのです。つまりそれらは、常識的な楽しみ方をする限りは、問題となることはないのですけれど、異常な性癖を持つものが、その性癖に極めてマッチしたヒット作を手にしてしまったときには、その作品はその所有者にとって、「欲望充足マシーン」、「欲望増幅マシーン」となってしまうのです。こうして、自分の感じていた不満足を満たす手段を仮想的に得てしまった彼、あるいは彼女から見れば、現実というものは、極めて退屈で、理不尽で、不満で、何の救いもないという絶望感までもが、増幅され、際立たせられてしまうのですね。仮想現実から現実に戻る瞬間での絶望感。そんな絶望感が何度となく繰り返され、そんな絶望感を打破するための作用として、ファンタジー的・ヒーロー的・ヒロイン的思想というものが、ゆっくりと醸造されていってしまうのではないかと。小説やアニメや映画、ゲームでは最後に約束されているはずの「カタルシス」、それを現実に求めるがゆえに、そういったメディアに沈溺しつくした者達は、逆境において、非論理的に暴走しやすくなるのではないかと。

っというのが現時点での私の仮説です。さらに詳しくは、別エントリにて、いつか語りたいと思っています。お楽しみに!

投稿: 超! | 2008年10月26日 (日) 18時04分

追記です。

勤皇の志士達の暴走。確かに似てますね。「自分は特別である」、「自分はヒーローである」、「ヒーローたるべし」、そういった焦燥、焦り。そういった感情を生む背景、その共通点も、確かにあるかもしれませんね。

投稿: 超! | 2008年10月26日 (日) 18時40分

超さん

>確かに、あの件(意見交換会)での橋下知事の発言は、すこし言い過ぎかも、と私も思いました。

私も何度も申し上げているように、橋下さんには改革者として期待しているところがあるのです。あのような「暴れん坊」でなければ、旧弊を打破できない。打破した後、立て直しを彼自身がやるか、他の人にやってもらうかは別にして、まずは打破しないといけない。それが出来るのは現状では橋下さんしかいません。
しかし、必要でない部分まで過激にやるものだから、敵を作る一方です。本来、庶民を味方につけて、行政を変革するのが目的であるはずなのに、最近の橋下さんは、庶民を攻撃する側に回ってしまっている。今回の件で、大阪の貧しく、かつ公立に入るまでの学力のない子供達、そしてその親達の多数を敵に回してしまったと思います。その数はすごい数だと思いますよ。話し方一つ、心配り一つの問題なんですけどね。

朝日新聞とも無用なバトルをやるものだから、マイナス効果が発生しています。何を書かれても放っておけばよいものを、わざわざやり合うものだから、返って、橋下さんが「弁護士失格」であることを印象づけてしまっています。朝日新聞を嫌う人たちには受けるのかもしれませんが、好きで購読している人たちには嫌われてしまうことになります。そこで失う支持層もまた莫大です。それに朝日だけでなく、マスコミ全体を敵に回すような勢いを示してきており、増長ぶりに歯止めが効かない感じです。今後、メディアから一斉にバッシングを受けるのも遠くはないと思います。

メディアを使ってのし上がってきた橋下さんなのですから、最後まで、メディアとうまく付き合って欲しいです。冷静さを失い、焦りと混乱を生じているのではないでしょうか。

やり合う必要がある場合には、徹底的にやり合う、しかし、優しさを示さねばならない場面では、それを示す、軽くいなして素知らぬふりをすべきところではそうする、そのような老獪さを持って欲しいものです。そうしないと、打破する前に失脚でしょう。

そうなると、大阪の景気は一気に転落するでしょう。それは最悪のシナリオです。


>異常な性癖を持つものが、その性癖に極めてマッチしたヒット作を手にしてしまったときには、その作品はその所有者にとって、「欲望充足マシーン」、「欲望増幅マシーン」となってしまうのです。

アスペルガーのような発達障害者の方は、犯罪の発生率も一般群に比べて低いですし、温和しい人が多いのですが、一つのことに執着するという特性を有しており、殺人を取り扱った作品などに多く触れると、殺人に執着してしまい、殺人空想に浸るようになり、常識では理解しがたい猟奇的な事件や無差別大量殺人事件などを起こすケースが最近、増えてきているように思います。これは、発達障害者支援法なども制定されましたし、そのような障害を持つ人の生育環境に周囲が配慮してあげることによって、健全な社会適応が出来るようになると思います。アインシュタイン、エジソン、グラハムベル、ヴィトゲンシュタイン、ビルゲイツなどはアスペルガーであると言われており、教育の仕方によって、一つのことに執着するという特性を良い方向に向けることにより、天才的な能力を発揮して、社会に貢献することができると思います。、

オタク文化というのも、一概に悪いものとは言えず、これらを規制する方向性は表現の自由との関連でも難しい面があると思います。殺人や性などを扱った作品も、健全な精神を持つ人が読めば、自分の持つ攻撃性向や、性衝動などを、そこで解消することができるという効果もあるのかもしれません。また、そういうものを題材にしていても、作者が本当に訴えたい点は別にあるという作品も多いです。そういう文化に触れてもいい人、触れてはいけない人の区別をしていくというのが、今のところの対策方針ではないでしょうか。

小説であれ、映画であれ、漫画であれ、フィクションというのは、日常から離れた架空空間に旅立ち、再び戻ってくるという側面があり、これはフィクションの伝統的機能です。純文学であってもそうでしょう。しかし、フィクションであるからこそ、逆に真理に迫れることもあります。確かに仰るように、大量に粗製濫造されており、無内容で無価値なものが氾濫していますけど、それと本当に価値のあるものを、法律によって区別して規制するのも不可能ですしね。

>さらに詳しくは、別エントリにて、いつか語りたいと思っています。お楽しみに!

楽しみにしています。

投稿: 指摘マン | 2008年10月26日 (日) 19時53分

指摘マンさん。

橋下弁護士と意見交換会が、どのような経緯で行われたのかを私は知りません。それがもし、橋下弁護士が主導して行ったものならば、私は彼の言動の裏に、あざとさを読み取ります。けど、逆に、子供達による陳情を解決するために、やむを得ず開催されたものであるなら、そこにはやはり子供達の「甘さ」を感じざるを得ないです。橋下弁護士の厳しい発言は、あの場にいる子供達に対して発せられただけのものでは、きっと無いのでしょう。マスコミを通じて大阪府民全員に、もしくは日本国民全員に対して発せられたものだと、私は感じました。

「日本という国は自己責任が基本」。

正直、私も耳が痛い言葉ですが、正論だと思います。あの場をセッティングしたのが、もし橋下知事ではなく、子供達を応援する大人達であったのなら、その大人達には、しっかりとこの言葉をかみしめていただきたいです。

>アスペルガー
数年前、私はアスペルガーについて調べたことがあります。そのときは確か、「物語に異常なほどのめりこみ、その主人公に感情移入する」、っというのは、症例には含まれていなかった気がするのですが、今調べてみたところ、そのようなものも、アスペルガーの症例として含まれるようになったのですね。その点、私もひょっとしたらアスペルガーなのかも。

子供の適正、あるいは疾患を幼い頃に見抜き、適切な道にその子を進ませる。もし親がそれに反対するなら、その子を奪い取ってでも。もし国家がそれを出来ないなら、そしてもし私に財力があるなら、そういった施設、っというと語弊がありますが、そういった活動をしてみたいですね。私が出来ないなら、誰か代わりに、なんて夢想したりしますけれど、この世界的不況のご時世。そのような慈善事業など、夢のまた夢なのでしょう。

私は今の私に出来ることをなすのみ。

>楽しみにしています。
ありがとうございます。
色々と教えていただき、感謝してます。私にとっては、本当に貴重な機会でした。

と、勝手にまとめてしまってますが、もし引き続きお話したいことがあるのであれば、遠慮なく書き込みしてください。もし必要であれば、それ専用に別エントリを作っても構いません。

投稿: 超! | 2008年10月26日 (日) 23時24分

超さん

>もし引き続きお話したいことがあるのであれば、遠慮なく書き込みしてください。もし必要であれば、それ専用に別エントリを作っても構いません。

いえ、橋下さんネタも、もう尽きたように思います。また、市民との討論会でネタを提供しているようですけど、そろそろ飽きてきました。

超さんのこれからのエントリーで、橋下さんネタ以外でも、興味があることについて、時々、議論させてください。

とても有意義な議論が出来たことを感謝しています。

投稿: 指摘マン | 2008年10月27日 (月) 09時55分

指摘マンさん。

ぐはあ。飽きさせてしまってすみません。微妙な話題だし、人の生き死にが絡む話ですので、慎重に書かざるを得ませんでした。

>超さんのこれからのエントリーで、橋下さんネタ以外でも、興味があることについて、時々、議論させてください。

了解しました。今後ともよろしくお願いいたします。正直、閑散としたブログですけれど、指摘マンさんの憩いの場のひとつとなれば幸いです。

投稿: 超! | 2008年10月27日 (月) 19時58分

超さん

>ぐはあ。飽きさせてしまってすみません。微妙な話題だし、人の生き死にが絡む話ですので、慎重に書かざるを得ませんでした。

いえ、そういう意味ではなくて、橋下さんの過激発言をして世間の注目を集めるという手法にいささか食傷気味になってきた、という意味ですよ。
超さんとの議論は、大変、為になりました。

今後ともよろしく御願いします。

投稿: 指摘マン | 2008年10月27日 (月) 21時19分

了解ですcat

投稿: 超! | 2008年10月27日 (月) 21時57分

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